2010-10-16

秋の詩 -Poem of Autumn-

幻想的な話題。詩のような、わかる人はいないと思える話題。

この春、和解したくて、許されたり許したりしにヒト月ぶりに言葉を交わせる人に会いに行くとき。
こんな穏やかな晴れた陽射しのなか、勝手に左目が閉じていた。しばらく右目だけで視た世界を感じながら歩いて、そんな世界に慣れてから両目を開いた。

その人とその場で和解できなくとも、部屋を出てしばらく、晴れた日は右目で世界を見ようとする習慣が夏の半ばまで続いた。


今日。私に似ているけれどどうしても許す気になれない、自力では反省することのできない、救えない人の話を聞いた。

部屋を出て外を歩くと、左目が力強い。
外側から巻き込むように、罪のない蝶すら叩き落としそうな力が出ている気がして青空に目を逸らす。

左目は許さない見方を脳に与える。
断罪でも、分析して射落とすのでもなく。理解することすら拒み叩き落とす。


それぞれに、対角線。二つの軸で対立し、右目で優しく受け入れないことも、左目は…… わからない。別の使い方もある気がするが、今はわからない。

ただそんな幻想を覚える秋の青空

2010-10-11

解釈に意味なく ( nonsense )

さきほど、物語を分析するのに、現実のドラマとしてとらえるか、心の中で原型がおりなすダイナミズムととらえるかに意味はないだろうと思えるようになった話を公式日記 の記事として書いた。そして、オカルトもそういうものなんだろうと思えてきた。

人と人のあいだにおきた物語は、現実かフィクションかに拘わらず、リアリティがあるならばそれはあったこと。 河合隼雄氏の言葉をこの一、二年集中的に読み返した中で、ことに印象深かった言葉のひとつ。

ひとが認識する 現実 はすべて、ものがたりとして記憶される。体験される。事象ではなく、真実は人の体験した数だけある。

起きた出来事は、人との関わりで、そのときに投げられた言葉、相手から受け取った解釈こみで記憶され、影響をうけてその人の体験・物語となる。

物理的な検証はべつにして、そこにものがたりはあった、のだ。岸田秀氏が共同幻想と名づけた解釈をある程度共有しないような人間関係は、浅い。