さきほど、物語を分析するのに、現実のドラマとしてとらえるか、心の中で原型がおりなすダイナミズムととらえるかに意味はないだろうと思えるようになった話を公式日記 の記事として書いた。そして、オカルトもそういうものなんだろうと思えてきた。
人と人のあいだにおきた物語は、現実かフィクションかに拘わらず、リアリティがあるならばそれはあったこと。
河合隼雄氏の言葉をこの一、二年集中的に読み返した中で、ことに印象深かった言葉のひとつ。
ひとが認識する 現実
はすべて、ものがたりとして記憶される。体験される。事象ではなく、真実は人の体験した数だけある。
起きた出来事は、人との関わりで、そのときに投げられた言葉、相手から受け取った解釈こみで記憶され、影響をうけてその人の体験・物語となる。
物理的な検証はべつにして、そこにものがたりはあった、のだ。岸田秀氏が共同幻想と名づけた解釈をある程度共有しないような人間関係は、浅い。
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