承前
走り書きした前記事 のまわりの話。
友人 T 、T の知り合い 8人と「新宿七福神巡り」と名のついた初詣に参加したときの記録。
初対面
T と直接に会うのはこれが三回目。
彼が今回呼びかけた残り八人、いわゆる日本のスピリチュアル文化 にどっぷりとはまった人ばかりなのは最初からわかっていた。だが、会うのははじめて。
私を除いたほぼ全員が、互いに顔なじみなのは、そこまでの経緯で分かっていた。
集合場所に着くなり、最近 体調が悪く寝込みがちなT にいきなり言った人がいる。
いや、それで毒を排出しているのだから。悪いもの全部ざばーっと外に流して、世界が良くなる日に向かって備えましょう
いや、あなた。
毒は自ら消化(昇華)するもの、どうしても消化しきれなかったものを外に出すのは必要だけれど、周りに害のない形になるよう努力して。擬音にするなら「ころころ、ことん」と出すものでしょ。
ざばーっと、と。胸から下に向けてブルボン王朝の女性のスカートのように拡げながら手を動かした、その姿勢で周りに害毒を垂れ流しにしてどうするのよ。あなたのいう「世界が良くなる日」て、周りに害をまき散らして、自分たちだけが助かる日なのですかと。
毒を自ら消化したくて苦労している T の姿勢を、てっぺんから否定するようなことをおっしゃるのだね。
……のっけから、いやな気持ちになってしまった。
礼儀
午前は冷え込んだ。指がかじかむような寒さだ。
だからといって、神様の存在を信じている、信仰深いと称する人々のなかに、鳥居をくぐる前にコートも脱がないって人がいる。
コートは玄関を入る (=鳥居をくぐる) 前に脱ぐもの。百歩譲って、玄関先で。
二礼二拍一礼、信者として一人で「願い事」に訪れたのならばそうするべきだろう。
お辞儀は九十度 ? それが正式 ? バカ言っちゃいけない。第二次世界大戦の前の神道至高主義、近所のおばさんより教師が偉く、教師より御尊影(天皇陛下の写真)や神社が偉いって子供に押し付けたくて、差別化のために言い広められた妄言だ。
心からの敬意が現れて最敬礼になるのならよし、その「形」を真似てなにが敬意なのだ。
私はこの日、一度も「二礼二拍一礼」はしなかった。
キリスト教徒が神社に訪れ、礼を失さず敬意を表するように、神様にご挨拶。
故あって人と親しむため、七福神巡りという遊びで訪れました。お邪魔いたします
のちほど、人としてのマナーはどうなの、君は信仰でなく歴史の探求にきたのか
とあてこすった非難を書いていた男がいた。コートも脱がなかったうちの一人に。
厄落としの儀式
神楽坂の毘沙門天で厄落としをしていた。
振るだけでカチカチと鳴る木製の器具を、厄落としを受ける方に向かって、上下左右・上右左下とリズムをもって打ち鳴らしている。
そうか。二年前、前厄のときから精神面で追い詰められると、私が上下左右に指パッチンして気分を収めるなんて妙な習慣ができていたのは、これが源流か。
そこまで四十年生きてきたし、神楽坂の近くの学校に通っていたから。どこかで目にする機会があり、頭に刷り込まれていたのだろう。
前世とか霊性によって既存の宗教に採り入れられたのと同じものを編み出した、と解釈する人もいるだろう。
なに、ふつうに生きてきて目にしたことがあったから、私の心の形が、そんな儀式を生み出した人々と多少似通っているから。それだけで十分。私はね。
どちらに解釈しても、意味は通るし、起こった出来事・ついた習慣の価値は毛頭変わらない。
そんなことをぼんやりと思っていたら、いつのまにか同行者をさんざ待たせてしまった。
現在の人に親しみにきたはずなのに、「神様・昔の人の心」に思いを馳せて、自分ひとりの世界に入ってしまったようだ。
だから、神様 (という文化) と対話しにきたつもりはなかったろうよ、自分。
災厄
食事時。一人がはしゃいでイエスとマリアは夫婦だったんだよね
と俗説を得意気に語る。
私はキリスト教徒ではない。神様がなんと言おうと、自分がやるべきと決めたことはやるだろうし、その気持ちのままで入信はできないと、受洗を何度も考えたけれどとりやめてきた人間だ。
なのに、やたらに腹が立つ。なぜそんなに腹が立ったのか、自分でもわからなかった。そこまで私はキリスト教に囚われているのかとすら疑った。
たとえば、イエスとユダは未来からの能力者だったとするノリ・メ・タンゲレ
なぞは、好きな漫画作品のひとつだ。ネタバレを避けるため詳しくはいえないが、石川賢・版の魔界転生
など、偏愛していると言ってよい。
敬意を傍に置き、不謹慎な仮説を立て検討するのは好き。そこに至るひとつの形として、不謹慎なジョークも大好きだ。
だが、一つの既存の信仰の代わりに、べつの借り物の説を無検討に持ち出して真実としてまき散らすのは少し違う。
やっぱりそうだったんだ、納得した
と誇る顔に、処女懐胎なんて奇跡信じないわよ。汚れた私だってマリアさまと崇められるひとと同じものになれるのだわ
と貶める陶酔と、性を肯定する悦びだけを感じた、とするのは私のあとづけの理屈かもしれない。
キリスト神学の骨頂は「不条理なるが故にわれ信ず」
不思議な伝説を正面から乗り越えることをせず、借り物の、伝説が虚偽だというだけの、俗な解釈に逃げて、何の意味があろう。
食事の席でしばらく不快感を反芻し、無分別な怒りにならないように検討し、検討したつもりで。出てきた言葉はこうだ。
素朴な疑問。
私がキリスト教という文化を学ぶのは、人の心のありように自分の心の動きを知り、キリスト教文化からできた様々の芸術作品をより深く感じるためです。
2千年ほど前の事実がどうだったか、キリストがどのマリアと結婚していたかどうかなんて意味のない話。私にはね。
あなたがその説を信じることで、あなたにどんなメリットがあるのですか
イエスの伝説には、聖母のほかにふたりのマリアが登場する。俗説は、この三人をひとつとするものであり。それ自体は神話へのアプローチ、原型の一致として否定できない。
場がしらけた。
ある人がいう。いや、かくされた真実を知ることで、温故知新。いまの我々も救われるでしょう
でたよ、自分たちが不幸なのは、xx のせいだ。外部の xx が取り除かれたら、幸せになれる
その論法で、ナチスは 少数派、ユダヤ人
を敵にすることで 残りの多数派
の票を得て政権を取り、狂信に走った。平たくいえば、カルトへの道だ。
反論なら二つほど頭を去来した。
- 隠されているからといって、自分がやっとたどり着いたからといって、それが真実とは限らない。定説とどちらが正しいのか、せいぜい同等。そのあとの検討が重要
- 外部の文書がないと、真実がわからないのか。あなたにとっての真実は、あなたが伝説や儀式を生み出した昔の人の心に同調したときに、勝手に、文書の必要なくわかるものだ。私が先ほど毘沙門天の厄落としに感じたように
場を荒げるのがいやで、口には出さなかった。
それで良かったのだろう。そんな借り物の説をやすやす真実と信じ込む相手をうっかり論破して、味方=信者になられたらもっとタチが悪い。敵と認識されても厄介。
とはいえ、そんな決着も見通せず、素朴な疑問
を口にしたのはうかつであり、大人気のない話であった。