2010-07-28

理窟に意味なく (No reason but)

前から気になっていたギャグ漫画May 探偵プリコロ の 1, 2巻 を古本屋で入手できた。

読んでいてつくづく思う。うっかりタロットで当たってしまう現象、本当にこんな感じだ。理窟をいくらつけても現実を解き明かす度に裏切られ、ただ結果だけが出る。

本当に奇偶 を呼び寄せてしまう体質としかいえず、ある日突然に訪れる。

魔夜峰央氏といえば、代表作 パタリロ のなかに悪魔を登場させたり、その悪魔を主人公にした話を描いたり、あまつさえタロットカードのデッキすら作ったことがあるが。それは単にミーハーな感じの、読者層に合わせた風味に過ぎなかったと思う。

オカルト色をまったく排したこのギャグ漫画のほうが、オカルトの真髄を衝いている気がする。

2010-07-03

「視える」ってなに ? (What's Insurance )

去年の後半をミニブログに熱中し、多数の人と接するうちに 人が視えて困る という表現をするようになった。のめりこんで感情移入したり、見透かすようなことを無自覚にやってしまったり。

今年にはいり、同じく 視えて困る。目をそらすようにしているけれど という人に都合四人出会う。同じ 視える という表現でも感じ方はそれぞれ。でも同じことを言っているというのはなんとなく伝わる。

五つもケースが集まれば、その個々の視え方について考えれば、あるときふと共通点がわかる。自分が避けてきた、逃げてきた結果として人と衝突をしてきた 直観 とはなんなのかが。


おりしも一人目と出会い、最初の喧嘩をしたころに、公式日記に 調弦推理 という題で書いていた。

心に残る言葉、気になる出来事があったとき、人は何度も思い返す。引っかかる

何度か思い返すと、無自覚・未言語な領域に、いくつもの仮説が現れる。するとリアクションはいくつかの仮説に対応し、どれにでもうまく答になるようなものになる。

外界からさらに反応が返り、そこで仮説のいくつかが絞られる。だんだんに絞り込まれて、残ったものがある日ある時 認識 として降りてくる。

言語で説明されたものではない。思い込みかもしれない。だがそれは往々に正しかったりする。

これを 直観 と呼ぶのだろう。言語化した自分の認識に囚われず、いくつもの仮説を並行して脳内に思い描くこと。だから過ちもある。論理で説明できない仮説のひとつというだけなのだから。口にしたから、表明したからといって、他の可能性も脳内に棲息している。たまたま、最悪の可能性をふと思い浮かべてしまうだけ。

口にする、言語化することで、それぞれの仮説を絞り込むことができる。それが 直観を磨く・鍛える ということ。

言語化しないことはしんどい。哲学のほうでは もの、そのものが見えてしまう という表現をする。しんどさ、つらさに耐えきれず 治療してくれ と訴えかけると、それは精神病理のケースになる。だが、耐えること、乗り越えることはできる。

つねに不安定な世界観に晒されながら、耐えつづけること。それが直観。視えるということ。しんどいよ。だから人に勧めはしない。好奇心だけで力を得ようとする人をみると、いつも全力でとめる。

霊能マンガなんか読んでいる

古本屋で、 という漢字と、狐の画がかわいかったのに惹かれて買ったのが霊能者の事件簿と称する実録マンガだった。

フィクションとしてならば今まで何度か読んでいたが、実録を謳うそれは、今まで避けていた。なぜ素直に読めているのか顧みる。

解釈はひとつじゃないと思えるから、怖くない。結論はそこだ。

私は自分の問題は自分で解決できるだろうと思っている。世界中を救うことは望まず、自分と大事な人だけが大過なく生きられたら構わないから、それで構わない。だからすがる必要はない。

オカルトはノウハウだけが大切、個々の解釈は意味をなさない。物理の計器で検証不能なので、その裏にどんな解釈を加えても、間違っているともいえない。正しいとも言えない。

今回読んでいるのは、日本人が、先祖霊や事件の性質に応じた神社の援助を得て解決を導くはなし。

だが、世界に生きているそれぞれの民族が、いまも存続している。べつにどれか選んですがる必要はない、ということ。

私は単に、偶然を信じているのだろう。偶然の裏側に理屈を求めなくとも構わない。自分の過失の部分さえ自覚・反省することができれば、偶然を受け入れれば、そこに何やら霊の導きがあろうが、なかろうが、構うことはない。気にする必要はない。

うしろの人が相談して、ここに数珠を置き忘れさせて貸したんだよ と理屈をつけないといけない主人公たちが、わりと可哀想。

あまり気が進まないが、書名もメモっておく。妖狐狩り