2011-11-27

科学的にいえば ( In other words of science )

幽霊や妖精をみる人々を何人も探し、会った。同じものを視たいと望んでいた時期だったので、その いる 場所はヒントをもらわずとも分かるようになった。なんだ、子供の頃に気づいていたが認識するのをやめた場所であり、存在じゃないかと思えた。

同じ存在の感覚は、空の雲にも感じる。もやというにも薄い夜の視界の曇りにも感じる。つまり、これは物理的にいうならば湿気と気圧の異常な偏りに過ぎない。

テレビを視なくなって久しいが、長らく大槻なるセンセイが、民俗学のことばでいう人魂はプラズマの異常な発生に過ぎない、ゼロではない確率で発生するのだから怖れるなと力説しているらしいことは知っている。これも類似の分析だろう。

物理的にいえば、人もは主に炭素と酸素、水素からなる固体に過ぎないというのと同じだ。


幽霊は本当にいるのかな。

いない というのは物理的に計測不能だということ。いる というのは対処可能だということ。どちらも矛盾しません。

そう答えたことがある。

物理的にいえば、人は主に炭素と酸素、水素からなる固体。だがそこに意思があることを誰も否定しない。否定したら自分の意思をも否定することになるから。

我思う、故に我あり。故に隣人もあり。 原初の哲学は、そんな単純な実感を言葉にすることから始まった。ならば湿気と圧力だろうがプラズマだろうが、そこに意思を感じコミュニケートが成り立てば いる ということ。単にそれだけの話だ。

コミュニケートというのはなにも言葉に依らないこと、犬猫を可愛がることができる人ならば知るだろう。邪魔だから相手の意思をかんがみず、ただ存在を滅することもコミュニケート。害を及ぼさないから放置して存在を愛でるというのもコミュニケートだ。

生命活動はいつも不思議だ。人間や動物は身の周りにありふれ、誰もが認識しているから そういうもの と捉えているだけで、意思をもつ仕組みは分からないままに認めている。だが科学的にいえば、意思がどこに存在するのかなど誰も解析したことも把握したこともない。脳内の電流とパソコンのチップを流れる電流の区別は、設計者を知っているかどうかの違いだけだが、パソコンに意思はないとみなされる。


ヒトは自然に手を入れ、食料と住居を作り出し、個体の数を増やしてきた。山の樹や野性の動物・昆虫を闇雲に殺せば、バランスを崩して自らの生活が脅かされることもしった。そこにある存在に敬意を払い、自然に発生し今あるバランスを崩しすぎないこと、共生することが長期的にみてヒトの生活に利することを、いまでは殆どの人が知っている。ならば幽霊や妖精、人魂とみなすことが可能な気圧や湿気、プラズマに敬意を払うのも安全側に振った当然の選択だろう。と私には思える。

そこに生命があり意思があると考えようが、考えまいが。生命や意思があると捉えて山を大事にしてきた古老の経験知は変わらず役に立つ。山を切り拓きダムを作り、護岸工事をして事足れりとして痛いしっぺ返しを食った例はいくらでも枚挙できる。

ならば霊能を謳うひとの唱える経験知であれ、過去の言い伝えをきちんと学んで語る言葉であるならば軽視する謂れは何ひとつない。うしろの理窟が同意できなくても、経験知は経験知だ。むしろうしろの理窟を実感なく言葉で盲信し、他に当てはめ無闇に怖れるほうが不遜で蒙昧な行いといえる。実感できずに言葉で考えるならば、計測可能なものを積み上げ言葉で考え尽くした科学に頼ればよい。

わからないものをはっきりと分からないと言えるのが科学を学ぶということ。

わからなければ自らの都合と、いわれる危険を秤にかけ、リスクを背負って決断するのが生きるということ。

敬意を払いつつ怖れなければ、生きることができる。

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