中国から日本に渡ってきた最初の宗教は、先祖を祀るという単純なものだった。 そう読んだのは井沢元彦氏の書だった。
最近に読み終わり、近くまたメモを取りながら感想を書こうと目論んでいる現代霊性論
に以下の記述があり成程と思った。
宗教は必要かどうかという問いを立てるよりは、むしろ宗教とどうかかわるか、どうつきあうか、そういうふうに考えたほうがいいんじゃないかな。 (釈)宗教というのは、愛とか労働とか言語と同じレベルのものです。(略) 人間が必要だと思ったから宗教をつくり出したわけじゃなくて、宗教があったから人間ができた、宗教は人間と同じだけ古いんです。(内田)
言語もそうだし、貨幣も性愛もそうです。誰かが
エロス的な欲望というものがあると便利だから、エロス的欲望を持つことにしようと言いだして、みんながそれはいい考えだと同意したから欲望が生まれたわけではないでしょう。人間というのは性化されたかたちでしか存在しないんですから、自己決定できない問題について、必要かどうかを論じても始まらないです。(内田)現代霊生論p.285
葬式は無宗教でとかねがね言っていた父を昨年に送り、遺骨を部屋に置き共に暮らすうちに飾り付けたくなり このような心の動きで祭壇やピラミッドができたのか
と実感したればこその納得だ。
父の遺骨を住居から離して一年と少しが経った。
霊魂があると信じてはいないが、たまに遺骨と向かい合うと背筋が伸び、父が手入れしていたように住まいを整頓しなくてはという気持ちになる。
なるほど、古代の半ば獣だった人類から受け継いだDNAに、困ったときには親の暮らしかたや決断の方法を踏襲することで、同じくらいには長生きできる
という生存戦略が刻まれ、淘汰の結果残ったのだな。
先祖から親に受け継いだ行動に知恵を仰ぐというのは、たしかに宗教だ。
これが原形か。
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