2012-05-29

幽霊の正体見たり枯れ尾花 ( Simple Definetion or Pride , of Modern Occultist )

幽霊に見えたから幽霊なのだと言って譲らないのがえせのスピリチュアリスト (平仮名のすぴ)

幽霊の正体は枯れ尾花じゃないかと鼻で笑って顧みないのがえせの科学主義

なぜその人に枯れ尾花が幽霊と見えたのかを客観(統計)で考察するのが科学者

なぜ多くの人に枯れ尾花が幽霊と見えるのかを、追体験の中から考察するのがオカルティスト

枯れ尾花が幽霊に見えることがつらいって気持ちを分かち合うことで、見えても怖くないと思えるところまで共に歩むのが臨床者


私は心理学の臨床者でも、占術の臨床者でもなく、オカルトの臨床者なのだろう。

龍眼に龍は見えない ( Sylpheed is nor one of gods, nor daemon )

思いつき

龍の眼に龍は見えない。

龍の眼に見える龍は、神格化された東洋の龍でも、化け物として恐れられる西洋の龍でもない。自分と同じ、自然のひとつの存り様(ありよう) に過ぎまい。

同じく自然な一人の人間が龍をみても、自然の営みとして素直に受け入れられる存在として認識されるだろう。それは例えば風の流れ、雲の動き。

ここまでが最初の思いつき

展開

人の身で龍がみえるならば、聖なるものや邪悪なるものがそこにあるように見えるならば。

きっと本人の心・認識が本人のあるべき状態・基準となる座標よりも、ほんの少しだけ自然から人間社会・人工的なものに偏った認識になっているのだろう。

自分に害を与えるほどに未開で荒々しくない、いわゆる(ひらがなのすぴ族が使う俗な言い方で)ぱわぁすぽっとと称する、そんじょそこらの神社や遠くの空の自然が畏怖すべきものにみえるのは、より人工的な社会を基準とした心の有り様にシフトしているから。 ……ではないかな。

生霊だ、死者の霊だ、憑き物(ケモノ)だといったものがみえる人が、同時に自然の龍だ、自然神だといった存在を感じたという じつわれぽーと という代物を見たことがないのが、その傍証となるだろう。

その手のものを見るひとは、きっと、本来のあり方よりも少しだけ自然のほうに近寄り過ぎている。


精霊の声を、いたずら者の人間的な声として聴いたと畏れるひとがいた。彼女はきっと、人間の世界にもっと寄っているべき認識の座標が、少しだけ自然の側にシフトしている。

女性に振られてしばらく悶々としていた男性が、あるとき白昼に想い人の、まだ聴いたことのない性交のときのあられもない声を聴いてしまったと悩んでいた。彼はきっと、失意によって禁欲を極めた果てに、本来のセクシャルな状態よりも、少しだけ行儀良く生きすぎてしまったのだろう。

思いつきは多分正しい。展開はもしかすると 気がついた一つを以ってすべてを説明しようとする 罠に囚われている可能性がある。

2012-05-26

悪魔祓いの資格 ( Who license exorcist ? )

数人の雑談で、「君はエクソシストに会ったことがあるか」という話題になった。

ある人は、ヴァチカンから悪魔祓いの許可を認められた神父のうち最後の世代と語る人に会ったことがあり、生きていれば六、七十の高齢だろうと語った。

ある人は、アメリカからきた聖職者で、教会から認められた、少なくとも聖職者としてはインチキではないエクソシストに最近会った、若かったといった。

「そうですね、では悪魔を決めるのは誰でしょう」
と私は仲裁した。
「日本の神様だって、キリスト教圏からいえばデーモンです。
祓っても良い悪魔、祓う必要のない精霊を見分けるのはそれぞれの信仰です。
だからヴァチカン=カソリックと、アメリカ発祥の別のキリスト教で、ひとつの事例に対し『これは悪魔だから祓って良い』という判断は違ってもおかしくありません。
ならばカソリックが認める悪魔祓いの神父の最後の世代より若い、自分の宗派で悪魔祓いの認可を得た牧師がいてもおかしくはありませんね。
ルーテルンがエクソシストを認めるとは思いませんが、アメリカは広いし、他にもキリスト教の新しいの(=プロテスタント)は沢山ありますから」

悪魔祓いをする聖職者なんて、もしいるとしてもヴァチカンの認可だけが正しいと小説の設定を読んで思っていたが。
考えてみれば有名な映画はアメリカ産。

人は自分の信じる神さまに従い、ほかのものを悪魔と決めつけ祓うよね。
神さまの数だけ、悪魔・非悪魔の分類はある。