思いつき
龍の眼に龍は見えない。
龍の眼に見える龍は、神格化された東洋の龍でも、化け物として恐れられる西洋の龍でもない。自分と同じ、自然のひとつの存り様(ありよう) に過ぎまい。
同じく自然な一人の人間が龍をみても、自然の営みとして素直に受け入れられる存在として認識されるだろう。それは例えば風の流れ、雲の動き。
ここまでが最初の思いつき
展開
人の身で龍がみえるならば、聖なるものや邪悪なるものがそこにあるように見えるならば。
きっと本人の心・認識が本人のあるべき状態・基準となる座標よりも、ほんの少しだけ自然から人間社会・人工的なものに偏った認識になっているのだろう。
自分に害を与えるほどに未開で荒々しくない、いわゆる(ひらがなのすぴ族が使う俗な言い方で)ぱわぁすぽっとと称する、そんじょそこらの神社や遠くの空の自然が畏怖すべきものにみえるのは、より人工的な社会を基準とした心の有り様にシフトしているから。 ……ではないかな。
生霊だ、死者の霊だ、憑き物(ケモノ)だといったものがみえる人が、同時に自然の龍だ、自然神だといった存在を感じたという じつわれぽーと
という代物を見たことがないのが、その傍証となるだろう。
その手のものを見るひとは、きっと、本来のあり方よりも少しだけ自然のほうに近寄り過ぎている。
精霊の声を、いたずら者の人間的な声として聴いたと畏れるひとがいた。彼女はきっと、人間の世界にもっと寄っているべき認識の座標が、少しだけ自然の側にシフトしている。
女性に振られてしばらく悶々としていた男性が、あるとき白昼に想い人の、まだ聴いたことのない性交のときのあられもない声を聴いてしまったと悩んでいた。彼はきっと、失意によって禁欲を極めた果てに、本来のセクシャルな状態よりも、少しだけ行儀良く生きすぎてしまったのだろう。
思いつきは多分正しい。展開はもしかすると 気がついた一つを以ってすべてを説明しようとする
罠に囚われている可能性がある。
0 件のコメント:
コメントを投稿