2010-05-31

凶角

京王線の上北沢から、南下して小田急に当たったところで電車に乗って梅ヶ丘に行こうと思った。

素直に道をたどると、桜上水から延びる 水道道路 に出る。一度道を外れようとしたが、また水道道路に当たり、好奇心もあって環状八号線に突き当たるまで歩いた。

家も、畑も、すべて斜めに横切られている道路だ。建物という建物が、無理にでも東西南北に向かおうとして、敷地に対して斜めに配置されている。

風景を見ながら歩いていると、自然に身体が、首が、左に傾く。

風水 という体系は論理を立てようとしすぎて的外れな部分が目につくが、この道をふだんから長くあるくようだと心身に悪いだろうと感じた。外に出て道路を歩くのがいやで、ひきこもる人もいるだろう。

体調が悪いいまの私だから、こうして歩くと敏感に感じる。環状八号線についたときには、身体を傾かせていたせいで肩が重く、あるいはこれで「霊にとりつかれた」「悪いものがつく」と言う人もいるだろうとも思った。

2010-05-15

久々に外した (Failure)

昨晩、久々に自分のことを引いて、筋の通らない並びを引き当てた。仕事の内容、いまの状況にしては、あまりに重いカードが出すぎだ。

約一年ぶりの現象に、偶然なんだから意味のとれない並びを引き当てることもあるさ とノートには書いたが、やはり気にかかる。去年の10ヶ月は筋の通る並びを引き当てる確率を出して理由を出そうとしたが、今日は筋の通らない並びを引く確率を計算しようとすら思った。

確率に意味を持たない現象だと既定・納得したわけだから、それは瞭かに間違い。

こんな文章を見つける。納得。

で、道場に行ったら、師範の先生が射つ場所はろうそくの明かりがあるのですけれども、的はぜんぜん見えません。真っ暗な中を先生が射つのです。しかし矢は見事に的に当たり、しかも次、二の矢を討ったら、それは一の矢の矢筈を割って刺さるのです。それをヘリゲルに見せて、先生が言うんです。

これは私が射ったのではありません。それ が射ったのです。それに二人で頭を下げましょうと。(略)

(大幅に略)

知っていたアメリカ人がいて、僕にKawai, 僕はオイゲル・ヘリングを読んで、ものすごく感激したけれど、実際にテレビでやったら、西洋のほうがよっぽどよう当たる。日本のなんか、ムチャクチャ離れたところにパーッ行ったりして。なんでああいうことが起こンねや と言うから、僕はこう言ったのです。

ああ、あれは、テレビに出ますと言ったときには、日本はもう負けています と。日本の弓術は、テレビでやるもんではありません。見世物にやろうと思ったときに、その人はもう負けているんです。見世物に勝とうと思っている人が、それ の力を借りたりはできません。自分で何とか当ててやろう と思うに違いないですよ。だから、テレビに出ようとしたというだけで、それはほんとうの日本の弓術ではありませんと言ったら、みんな なるほどな と感心していましたが、どこまでほんとかわかりません(笑)。でも、わかるでしょう。その辺りが非常に難しいんです。

心の扉を開く (河合隼雄 2006)

稀少な確率、信じがたい並びを引き当てる状態は、セルフが強くなった状態。エゴでは引き当てられない

2010-05-07

お奨めしません (I don't suggest you)

「もっと***勉強したくなりました」
「***で頑張ってほかの人を救えるようになりたい」


「カウンセリング」でも「占い」でも良いのだけれど。こういう方にはお奨めしたくないなぁ、と感じてしまう理由を考えてみた。

山に登らないといけないときには、地図を使う。でも未踏の山の地図が正しいかなんて、登ってみないとわからない。

金なり、好意なりで、ガイドが雇えることもある。でもシェルパだって毎日山に登っているわけじゃない。季節によっても路は違うだろう。山崩れで地形が変わっていることもある。

ガイドがいて、山も始めの方で、「地図が読めてガイドができると人が援けられるのですね。私も他の人を……」

何回、いくつ、山を登っても。事故は起きます。そして (あてになるか、ならないか分からない) 地図の読み方がわかっても、二本の脚で山を登り、無事に降りてくる苦労は減った気がしません。

そんな感じかな……

納得のいく喩えを思いつき、書いてみたら。終わるまで言うのを待てば良かったかと反省した

2010-05-03

狂気とか ( Out of Common Sense )

子供の頃に、自ら斥けた 幻視・幻聴能力 (人類の 5% 、血液型 AB の半分くらいにはありふれているらしい) を受け入れて、もうすぐ一年。幻視を現実と混同せずに認識し、現実と関連することもある ことを把握し、またべつの能力を持つ人とも出会い。

いまの認識として、人それぞれ別の能力を持っていると思う。多寡だけでなく、質も。

常識 = Common Sense は、本当に共通(Common) にして最低限。多数の人間に通じることばに過ぎない。世間に対しては Common Sense だが、個々人にとっては Basic Sense なのだろう。その先の、教科書のない部分をどう扱うかが、個性であり、人生なのだと。

この先、ものの本に載っていないどんな出来事が自分にあっても驚きはしない。また、人が持つ能力である以上、どんな確信があっても間違いは起きることも自覚しつづける。

どう生きても、個々の人生。能力を封印しつづけて、たまにいきなり、洗練されていないかたちで発揮してしまい畏れるよりも、認識して把握して、洗練して、それでもなおかつ他人に通じないことばであることを自覚して、語る相手は選ぶ。そのほうが、きっと世間的にも成功に近い。

いまさら、あと二十年を目一杯に成功してもしれているけれどね。