去年の後半をミニブログに熱中し、多数の人と接するうちに 人が視えて困る
という表現をするようになった。のめりこんで感情移入したり、見透かすようなことを無自覚にやってしまったり。
今年にはいり、同じく 視えて困る。目をそらすようにしているけれど
という人に都合四人出会う。同じ 視える
という表現でも感じ方はそれぞれ。でも同じことを言っているというのはなんとなく伝わる。
五つもケースが集まれば、その個々の視え方について考えれば、あるときふと共通点がわかる。自分が避けてきた、逃げてきた結果として人と衝突をしてきた
が。直観
とはなんなのか
おりしも一人目と出会い、最初の喧嘩をしたころに、公式日記に 調弦推理
という題で書いていた。
心に残る言葉、気になる出来事があったとき、人は何度も思い返す。
引っかかる。何度か思い返すと、無自覚・未言語な領域に、いくつもの仮説が現れる。するとリアクションはいくつかの仮説に対応し、どれにでもうまく答になるようなものになる。
外界からさらに反応が返り、そこで仮説のいくつかが絞られる。だんだんに絞り込まれて、残ったものがある日ある時
認識として降りてくる。言語で説明されたものではない。思い込みかもしれない。だがそれは往々に正しかったりする。
これを 直観
と呼ぶのだろう。言語化した自分の認識に囚われず、いくつもの仮説を並行して脳内に思い描くこと。だから過ちもある。論理で説明できない仮説のひとつというだけなのだから。口にしたから、表明したからといって、他の可能性も脳内に棲息している。たまたま、最悪の可能性をふと思い浮かべてしまうだけ。
口にする、言語化することで、それぞれの仮説を絞り込むことができる。それが 直観を磨く・鍛える
ということ。
言語化しないことはしんどい。哲学のほうでは もの、そのものが見えてしまう
という表現をする。しんどさ、つらさに耐えきれず 治療してくれ
と訴えかけると、それは精神病理のケースになる。だが、耐えること、乗り越えることはできる。
つねに不安定な世界観に晒されながら、耐えつづけること。それが直観。視えるということ。しんどいよ。だから人に勧めはしない。好奇心だけで力を得ようとする人をみると、いつも全力でとめる。
3 件のコメント:
人って怪我をしないと分らないことって、
あると思うんだよねぇ。。。
例えば、子供に熱いという感覚を教える為に、
熱いやかんに触らせたり。。。
昔はそんなことがよくあって、
いろんなものが丈夫になって言った。。。
いろんなものを逆に隠し過ぎると
良くないと思うこともあり。。。
まあ、隠さないと難し過ぎると言って
逃げ出す人も多いけどね^^;;
そんなのどっちでも良いこと。。。
その人自身だから。。。
好奇心だけで手を出した結果、怖くなって本当に必要なときに近づけない *のも* こまりますよね。
試練なんて、本当に必要なときに立ち向かえば良いと思っています。運良く、一生必要なく暮らせたら、それで良いのではないかな
見えないより見えてるほうがいいじゃないなどと言う人には、ギリシャ神話のカッサンドラの話などしてみるのもいいかもしれないですね。
現代でも見えることで苦しんだり周囲に疎まれている人は多いんじゃないかな。
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