2011-12-21

霊感とか神聖視するなよ ( Garbage in , garbage out )

月曜日、小規模の忘年会を主催して飲み食いした。

知人が霊感てなんだろう。これこれのトレーニングをしたら身に付くというけど本当かなと書いたのがきっかけ。


心当たりの何人かに声をかけ、気がつけば《これこれのトレーニング》の弊害や行き過ぎについて古今東西の体系では、どうすると弊害を防ぐといわれてるか、どうなると行き過ぎてオカルトバカになるか、なんて話で大変に盛り上がっていた。わたしには充実した楽しい四時間だった。


ところが、だ。契機になった知人に感想をきくと、こんなお返事が返ってきた。

どんな弊害があるか、どう避けるかはわかった。たしかに危険なのだね

でも、どうすれば霊感が得られるかはけっきょくわからなかったな

当日の返事では、弊害を避けるための体系のあの本、この本、どの道場なんてはなしが出ただろうという話もわたし他参加者一名から挙がったが。なにか違和感を覚えてなかなか寝付けなかった。


一夜明け、火曜日。人数をあつめ会を企画したときに意図した、わたしの答を思い出した。


霊感、直観、第六感を得るという目的に絞って言えば。トレーニングは「知識で詰まった頭を整理する技法」にすぎない。トレーニングに伴う知覚異常、いわゆる神秘体験は、トレーニングしてる各自の、子供の頃の素直な感じかたを思い出してるにすぎない。

あるひとが幻を眼前にみるならば、そのひとは子供のころに視覚でものごとを考えるのが自分にとって自然だと「思いだした」だけ。別のひとは音声をきく、まれには味覚すらあるなんて話も出たが、みな個々人の資質。当人たちに会えばそれは実感できていた、はず。



幻をみるひとが、音声で聴きたいと思わないし、音声に変換するようなトレーニングを求めることはない。そこに違和感を感じないならば。 五感ではなく素直に思考の形であたまにひらめくのも立派に霊感・直観のたぐいでなんの違いもない。


あるひとはAというトレーニングで日常でもまれに視覚にヒントを得るようになった。べつのひとは聴覚に。べつのひとは通常の思考に。それぞれの結果に差異はなく、人に話してオカルトだといわれるか・いわれないかの違いは些細なことにすぎない。


幻視・幻聴・夢のヒントだって、通常の思考と同じく間違えるんだよ。

人間なんだから。


ある人には言葉での思い付きよりも、幻視のヒントのほうが精度が高い体質かもしれない。でも話を聞くひとは違うかもしれない。それだけ。



そして肝心なのは、これら全部「頭を整理する技法に過ぎない」てこと。

コンピュータの世界では、「ガベージイン・ガベージアウト」という。


会社の会計処理を考えよう。トップががんばってコンピュータを導入し、さらに速く計算ができるようにマシンの性能をあげ、ソフトを次々に高性能なものに置き換えても。


各支店の報告する売り上げの数字、仕入れの数字に嘘があればデタラメの答しか返ってこないだろ? ある支店が仕入れ明細に妖精の羽の粉・1グロスと報告すれば、そのまま会計ソフトは出力するだろ? このソフトに営業戦略をたてる機能も組み込まれていたら「売り上げの良かった妖精の羽の粉を全支店で取り扱いなさい」と指示すらするだろ?


だから、まず自分が正しいと認められる、信じられる基礎知識を積み重ねること。

日常への知恵は、日常の基礎知識や観察の集合からしか産まれない。

2011-12-20

宗教を求める気持ちが本能であるならば ( if "It" is only one of insticts )

まだ穏便な

ご飯を食べないと死んじゃうし
 ご飯を食べたら気分が良いけれど
  ご飯を食べるために生きてると言う人は
  あまりいないよね。
  たとえ思っていてもさ。

体に良い食べものは美味しいけれど
 美味しいものが体に良いとは限らないよね。
  きちんと理性で監視しないと。
   美味しいと体に良いはイコールじゃない。

食欲も性欲も似たようなもので
 性欲を満たすために生きていると
  宣言する人はいないよね
  (たとえ思っていてもさ)

宗教や神秘体験も本能のひとつと考えた
 欲望が強いと誇るのも間違っているし
  そのために生きるなんて恥ずかしいこと、言えないし
   気持ち良さと自分に良いがイコールじゃないこともわかる。
    でも無視し続けては生きられないとも分かる

きちんとしたご飯を体に与えるのを忘れたら
空腹のあまり人は新聞紙すら食べるし
ジャンクに慣れるとジャンクしか食べなくなる。

今だと
原発さえなくなればすべてうまくいく とか
大陸の息がかかった民主党さえいなくなればすべてうまくいく なんて
自分たちに責任があるか考えたくないから外部にを押し付けて思考停止をするのが
飢えて手近の新聞紙を口に入れるようなもの。

ジャンクフードに当たる宗教が何かは、なにを挙げるのも怖いけれど。
気持ちが良すぎたり、刺激が強すぎたりして常習性があり
ほかの生活を忘れたり、ほかの考えを学ぶ気持ちを喪ったりしたら
ふつうに
ジャンクフードとみなせるよね。


なんでこんなこと考えたかというと

今日を逃したら年賀状が書けないけれど飲みにいきたいな

いやちょっと待て。

やりたいことと、やるべきことは、ときに違って当たり前

やりたいことを圧し殺し続けては生きていけないけれど。たまには、より長期の展望でやりたいことやろうよ

買い物のとき、そう思ってから一気に思いついた。

自宅の水回りに仕掛けた、パイプ詰まりを溶かす薬剤が効果を発揮するまで帰れない、年賀状を書けないから、喫茶店でまとめてみた。

そしてさらに考えは続く。

自嘲と自戒をこめて書けば

売春と占い師(・マジナイ師)は税金やハローワーク、生活保護が整備される以前の社会における最後の命綱。自然発生する社会保障だと
一昨日月曜日に感じていた。( 年明けて4月ころに、私の実名日記のほうで書いた )。

性欲の受け皿である売春者が
 客に愛を求めても
 求められても
 いけないように

宗教欲の受け皿である占い(マジナイ)師が
 客に信仰を求めても
 客が独占を求めても
  いけないよ

どちらも相手に合わせているだけの
賎業なんだから。

2011-12-11

祖霊崇拝 ( Ancestor worship )

中国から日本に渡ってきた最初の宗教は、先祖を祀るという単純なものだった。 そう読んだのは井沢元彦氏の書だった。

最近に読み終わり、近くまたメモを取りながら感想を書こうと目論んでいる現代霊性論に以下の記述があり成程と思った。


宗教は必要かどうかという問いを立てるよりは、むしろ宗教とどうかかわるか、どうつきあうか、そういうふうに考えたほうがいいんじゃないかな。 (釈)

宗教というのは、愛とか労働とか言語と同じレベルのものです。(略) 人間が必要だと思ったから宗教をつくり出したわけじゃなくて、宗教があったから人間ができた、宗教は人間と同じだけ古いんです。(内田)

言語もそうだし、貨幣も性愛もそうです。誰かが エロス的な欲望というものがあると便利だから、エロス的欲望を持つことにしよう と言いだして、みんながそれはいい考えだ と同意したから欲望が生まれたわけではないでしょう。人間というのは性化されたかたちでしか存在しないんですから、自己決定できない問題について、必要かどうか を論じても始まらないです。(内田)

現代霊生論 p.285

葬式は無宗教でとかねがね言っていた父を昨年に送り、遺骨を部屋に置き共に暮らすうちに飾り付けたくなり このような心の動きで祭壇やピラミッドができたのかと実感したればこその納得だ。


父の遺骨を住居から離して一年と少しが経った。

霊魂があると信じてはいないが、たまに遺骨と向かい合うと背筋が伸び、父が手入れしていたように住まいを整頓しなくてはという気持ちになる。


なるほど、古代の半ば獣だった人類から受け継いだDNAに、困ったときには親の暮らしかたや決断の方法を踏襲することで、同じくらいには長生きできる という生存戦略が刻まれ、淘汰の結果残ったのだな。

先祖から親に受け継いだ行動に知恵を仰ぐというのは、たしかに宗教だ。


これが原形か。