月曜日、小規模の忘年会を主催して飲み食いした。
知人が霊感てなんだろう。これこれのトレーニングをしたら身に付くというけど本当かな
と書いたのがきっかけ。
心当たりの何人かに声をかけ、気がつけば《これこれのトレーニング》の弊害や行き過ぎについて古今東西の体系では、どうすると弊害を防ぐといわれてるか、どうなると行き過ぎてオカルトバカになるか、なんて話で大変に盛り上がっていた。わたしには充実した楽しい四時間だった。
ところが、だ。契機になった知人に感想をきくと、こんなお返事が返ってきた。
どんな弊害があるか、どう避けるかはわかった。たしかに危険なのだね
でも、どうすれば霊感が得られるかはけっきょくわからなかったな
当日の返事では、弊害を避けるための体系のあの本、この本、どの道場なんてはなしが出ただろうという話もわたし他参加者一名から挙がったが。なにか違和感を覚えてなかなか寝付けなかった。
一夜明け、火曜日。人数をあつめ会を企画したときに意図した、わたしの答を思い出した。
霊感、直観、第六感を得るという目的に絞って言えば。トレーニングは「知識で詰まった頭を整理する技法」にすぎない。トレーニングに伴う知覚異常、いわゆる神秘体験は、トレーニングしてる各自の、子供の頃の素直な感じかたを思い出してるにすぎない。
あるひとが幻を眼前にみるならば、そのひとは子供のころに視覚でものごとを考えるのが自分にとって自然だと「思いだした」だけ。別のひとは音声をきく、まれには味覚すらあるなんて話も出たが、みな個々人の資質。当人たちに会えばそれは実感できていた、はず。
幻をみるひとが、音声で聴きたいと思わないし、音声に変換するようなトレーニングを求めることはない。そこに違和感を感じないならば。 五感ではなく素直に思考の形であたまにひらめくのも立派に霊感・直観のたぐいでなんの違いもない。
あるひとはAというトレーニングで日常でもまれに視覚にヒントを得るようになった。べつのひとは聴覚に。べつのひとは通常の思考に。それぞれの結果に差異はなく、人に話してオカルトだ
といわれるか・いわれないかの違いは些細なことにすぎない。
幻視・幻聴・夢のヒントだって、通常の思考と同じく間違えるんだよ。
人間なんだから。
ある人には言葉での思い付きよりも、幻視のヒントのほうが精度が高い体質かもしれない。でも話を聞くひとは違うかもしれない。それだけ。
そして肝心なのは、これら全部「頭を整理する技法に過ぎない」てこと。
コンピュータの世界では、「ガベージイン・ガベージアウト」という。
会社の会計処理を考えよう。トップががんばってコンピュータを導入し、さらに速く計算ができるようにマシンの性能をあげ、ソフトを次々に高性能なものに置き換えても。
各支店の報告する売り上げの数字、仕入れの数字に嘘があればデタラメの答しか返ってこないだろ? ある支店が仕入れ明細に妖精の羽の粉・1グロス
と報告すれば、そのまま会計ソフトは出力するだろ? このソフトに営業戦略をたてる機能も組み込まれていたら「売り上げの良かった妖精の羽の粉を全支店で取り扱いなさい」と指示すらするだろ?
だから、まず自分が正しい
と認められる、信じられる基礎知識を積み重ねること。
日常への知恵は、日常の基礎知識や観察の集合からしか産まれない。
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