2010-01-24

体験のことば・解析のことば

昨日は没原稿を書いてしまったので、整理しておく。

前提 : 直観と神秘主義/神秘体験

この blog の最初のほうで書いたように、神秘主義 (狭義・厳密な意味のオカルト) には経験則としての意味がある科学の言葉で道筋をたてて説明されていない、放っておくと見過ごしがちな経験則が含まれている と考えている。

同時に、直勘優位で動く心の持ち主 や、幻視・幻聴体質 という、世間で少数派のための生きる知恵なのかもしれないという話も書いたことがある。

しばらくタロット本を読んでいるうちに、19世紀に錬金術を体系化した人々は、直観優位の人々であったが故に、過剰に直観を他の 3機能より重視し、絶対のものとして書きすぎているのではないか という考えも持っている。

註 1: ユングのいう 感覚-直観 , 論理-感情 の4機能の考えをベースに展開している

註 2: 未解明ゆえに過剰に信を措く人もいるが、個人の思考形式のひとつである以上、直観にも誤謬があって当たり前。という話もすでに書いた。

註 3: 19世紀に体系づけられたとき、タロットは錬金術の一部として捉えられた

註 4: 19世紀が直観優位の時代であったわけではなく、直観が虐げられ始めた時代であるが故の反動だろう。過去に黄金時代があって、その知識を解明している という意識で書かれていたことも、それで説明できる。

没原稿について

1月18日からの旅行の夜間、私は直観の判断をベースにして行動した。有意義な体験だ。

没にした原稿は、直観からそのまま言語化したものを書いた。

だが直観からの 経験則 をそのまま書いては、直観優位でない人、直観優位だが類似の体験をしていないひとには、タワゴトにしか読めないということ。これも事実だ。

そこにロジックの説明をつけることが、過去からの啓示とした19世紀、未来の一面的な理想としたニューエイジと、私のスタンスの違いであるはず。

いわゆる 予言書のパラドクス

岩手・宮城内陸地震 (2008年6月14日) の傷跡残る、栗駒山を地元の友人に案内してもらった。

山道に残る道祖神などを見ながら、友人にこんな話をもちだした。

昔のひとは、神様を祀っているところは、その加護によって無事だった と言った。近頃は 地盤の丈夫なところに神様を祀っているのは、古来の智恵だ という。どちらも間違いなんだけれど、わかる ?

え、いやわからない。(運転中だったので深く考えている余裕はなかっただろう)

山道に、ずらりといろんな神様が祀られていたところを想像してごらんよ。いま僕らが見ているのは、地震の崖崩れで押し流されたり、埋もれたりした像の残りなんだよね

ここで大切なのは、神様が祀ってあるから安全 という判断を嗤うことではなく、経験則、淘汰の結果として。安全な場所は取捨選択して残されている。偶然に残ったのかもしれないが、理由があって残った可能性も高いから、他の場所よりはいくらか安全 ということだ。

2010-01-23

伏流水

今日23日、午頃にひとつ書いていた記事があるのだが。いったん草稿の扱いに落として没とする。

自分で考え産み出した心への考察は、生活との接点、擦り合わせができている。取りたてて書くのを忘れるほどに。

書くのを忘れていたら、文章だけを取り上げたら妄想・カルトと見分けがつかない。ちと文章が不適切だったということだ。

追い々々と、誤解を受けないように慎重に、小出しにしよう

2010-01-19

陸奥の地を旅している

深夜に列車できて、私にとっての幽冥界だと思った。
なにげなく鞄に入れた「とりかへばや、男と女」(河合隼雄 2001年)を読み始めた。
色々のことを考えているが、ひとつだけ

「事象」と「現実」の間には解釈が存在する。
英語の "real" と "reality" も相似だろうか

2010-01-05

今まで認識し得なかった感情

仲間外れがつらい、という感情は理解可能だ。ある人を手許にとどめたいという感情も建設的とは言えないがわかる。

ある人が、別の人と一緒にいることを、快く認めていながら、目の前に見たくないという感情をなんと呼ぶのか。

これを嫉妬と呼ぶならば、タロー札78枚、いやスート札56枚のうちに象徴するカードがあるだろうか。

パメラ・スミスの描いたウェイト判を、一枚々々眺めながら考えた

嫉妬に当たるカードがあるとしたら、感情の盃だろう。2の逆、もしくは騎士の逆。独占欲まで含めれば、盃王の逆やトランプ女帝の逆も考えられるが。

念のため、棒を人間関係として眺める。剣を否定的な情動として眺める。

どれも、今の感情の原因や巻き起こす事象を表し得ても、感情そのものではないな。

これを嫉妬としよう。世間一般に認知されている感情が、自分に起こり得ないと否認するほど愚かではない。

だが、盃騎士逆や盃2の逆だと? 今まで、なんど見たと思う?

今までの札の並びの記録を全て掘り出して、その認識が当てはまるかどうか見直さなくては。

些細な、実占記録

些細なはなし。

なんとなく、珍しく、昨日寝る前に今日を引いてみたくなり、今日を半日過ごした処で暗示された部分をこなした気がしたのでもう一度引いてみた。2つが連続していて、また 当たり外れは別にして、とにかく首尾一貫したカードを引くよ というだけの記録

昨日から見た今日

星逆
横切るもの
棒7逆
根底
金貨3逆
表層
盃5逆
過去をどう解釈
盃9
先をどう捉えている
盃7逆
自身 (いま読んでいる本の影響で、ちと解釈を変えて引いてみた)
盃3逆
他者から見た自身 (同じく、変えてある)
棒騎士逆
剣5逆
このままの推移の結果
剣女王

午前が終わって、この先

剣8
横切るもの
棒9
根底
剣騎士
表層
星逆
過去をどう解釈
棒10逆
先をどう捉えている
自身 (いま読んでいる本の影響で、ちと解釈を変えて引いてみた)
盃5逆
他者から見た自身 (同じく、変えてある)
盃7
棒Ace逆
このままの推移の結果
剣2

2010-01-03

年の初めに一年を占うということ

占いかぶれ らしく、目が覚めたらこの一年の吉凶を占ってみようかと思いながら未明に眠った。

目を覚まし、暦の区切りに何の意味があるだろうかと考えてみる。占星術を引いたとしても、いまの太陽暦での新年に意味があるとも思えない。

重い夢を視たり、気分がころりと変わったり、個人的な節目・潮目を感じることはある。そこにリズムはあるだろうか。天候の変化が周期的ならば理解しやすくて美しいと、人は思ってしまうが、幻想。気候は大まかに毎年巡るが、細密に一日を区切ることなどできない。

晴れの特異日に意味があるか、というと占い以前の験担ぎだよね。

日本なら4月、欧米ならば9月の年度替わり、決算をして人が動くときに、様相の大きな変転はあるだろう。だが最大公約数を取って、3ヶ月ごとに先を占う意味はあるかな?

もちろん、3ヶ月ごとに四半年の決算をするならば多少の意味はあるだろう。

まぁ、そんな話。人みな休みを取り、心機一転するということ自体には意味がある。

運勢の潮目なんて、占いの結果なんて、3ヶ月以上も先のことは言えないのですよ。半年も経てば変わるのですよ。わざわざ言わずとも、3ヶ月もすればみな、年頭の占いの結果なんて忘れていますよね?

予測は羅針盤、占いであれ、科学で解明済みのものであれ。ちょっと先の行方を、現在の状況・心境が続くとして予測するもの。結果をみて軌道修正するために行うもの。軌道修正ができたあとの、その次のフェーズについて予測することに、意味がありますか?