昨日は没原稿を書いてしまったので、整理しておく。
前提 : 直観と神秘主義/神秘体験
この blog の最初のほうで書いたように、神秘主義 (狭義・厳密な意味のオカルト) には経験則としての意味がある
し 科学の言葉で道筋をたてて説明されていない、放っておくと見過ごしがちな経験則が含まれている
と考えている。
同時に、直勘優位で動く心の持ち主
や、幻視・幻聴体質
という、世間で少数派のための生きる知恵なのかもしれないという話も書いたことがある。
しばらくタロット本を読んでいるうちに、19世紀に錬金術を体系化した人々は、直観優位の人々であったが故に、過剰に直観を他の 3機能より重視し、絶対のものとして書きすぎているのではないか
という考えも持っている。
註 1: ユングのいう 感覚-直観 , 論理-感情
の4機能の考えをベースに展開している
註 2: 未解明ゆえに過剰に信を措く人もいるが、個人の思考形式のひとつである以上、直観にも誤謬があって当たり前。という話もすでに書いた。
註 3: 19世紀に体系づけられたとき、タロットは錬金術の一部として捉えられた
註 4: 19世紀が直観優位の時代であったわけではなく、直観が虐げられ始めた時代であるが故の反動だろう。過去に黄金時代があって、その知識を解明している
という意識で書かれていたことも、それで説明できる。
没原稿について
1月18日からの旅行の夜間、私は直観の判断をベースにして行動した。有意義な体験だ。
没にした原稿は、直観からそのまま言語化したものを書いた。
だが直観からの 経験則
をそのまま書いては、直観優位でない人、直観優位だが類似の体験をしていないひとには、タワゴトにしか読めないということ。これも事実だ。
そこにロジックの説明をつけることが、過去からの啓示とした19世紀、未来の一面的な理想としたニューエイジと、私のスタンスの違いであるはず。
いわゆる 予言書のパラドクス
岩手・宮城内陸地震 (2008年6月14日) の傷跡残る、栗駒山を地元の友人に案内してもらった。
山道に残る道祖神などを見ながら、友人にこんな話をもちだした。
昔のひとは、
神様を祀っているところは、その加護によって無事だったと言った。近頃は地盤の丈夫なところに神様を祀っているのは、古来の智恵だという。どちらも間違いなんだけれど、わかる ?え、いやわからない。(運転中だったので深く考えている余裕はなかっただろう)
山道に、ずらりといろんな神様が祀られていたところを想像してごらんよ。いま僕らが見ているのは、地震の崖崩れで押し流されたり、埋もれたりした像の残りなんだよね
ここで大切なのは、神様が祀ってあるから安全
という判断を嗤うことではなく、経験則、淘汰の結果として。安全な場所は取捨選択して残されている。偶然に残ったのかもしれないが、理由があって残った可能性も高いから、他の場所よりはいくらか安全
ということだ。
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