9月25日土曜日、ほぼ一日眠っていた。
夢の中、夢の言葉でずっと自己分析していた。心について一般化してあれこれ考えていた。
目が覚めてからも夢の言葉の延長でまとめようとしていたから、日常の側にもどったときに考えはどこかに行ってしまった。いくら夢の言葉がそれまで読んできた心理学の言葉に影響され、現実の中でも夢と心理の言葉に慣れ親しんで深く (人によって狂気と呼ぶような、個別で非実用な側に)踏み込む習慣をつけていても、本物の夢の中の抽象思考は、やはり日常の言葉に翻訳することはできないらしい。
妄想、幻想、占い -A jungian sympathizer's essay-
"New Age" (水瓶宮の時代) と呼ばれた思想家たちを消化しつつ、さらに乗り越えてその上を目指したい
9月25日土曜日、ほぼ一日眠っていた。
夢の中、夢の言葉でずっと自己分析していた。心について一般化してあれこれ考えていた。
目が覚めてからも夢の言葉の延長でまとめようとしていたから、日常の側にもどったときに考えはどこかに行ってしまった。いくら夢の言葉がそれまで読んできた心理学の言葉に影響され、現実の中でも夢と心理の言葉に慣れ親しんで深く (人によって狂気と呼ぶような、個別で非実用な側に)踏み込む習慣をつけていても、本物の夢の中の抽象思考は、やはり日常の言葉に翻訳することはできないらしい。
受けとるのはツラいと一番自分が知ってるはずが。
他人にわかってもらいたいという欲を抑え、自分が気づいてしまう部分を社会に適合させ、日常に向かうためにあるのが修行だろうに
迷惑をかける相手は、受け止めてもらう相手は、自分も相手を受け止めるんだと覚悟を決めた、ごく少数の心許せる相手にしときなよ
パワーストーンという名前で日本で呼ばれるようになったのはいつだったか。個別の効能を謳った石は昔からあったし、おみくじを引くような軽いノリでローティーンの頃から何度も買っていた。わりとすぐに効果がない・効かなくなったと飽きて紛失している。
タロットの話をするようになり、浄化という概念があり、石も浄化で効果が蘇ると言われることを知った。先週末にこの手の話題が忌憚なくできる人々と会い、水晶は水道水に晒すだけで良いらしいという話を聞いた。
月曜日、四日前。それでは久しぶりに自分用に石を買おうと思った。今年二回目。その前に石を買ったのは、五年ほど前に娘に贈った水晶球だ。(ん、自分用に買ったのを即座にねだられてあげたのだったかな ?) 直径 5cm ほどで、千円前後だったと思う。それくらいのものを買うつもりだった。
石の話をした女性が指に品良くはめていたオパールの印象があったせいだろう。ブラックオニキスの大きな、いかにも魔術師っぽく見える指輪に惹かれてこれを買ってしまった。アヤシイ。アヤシ過ぎる。ちなみに予算オーヴァー、2,600円。
帰宅して検索するとパワーストーンのサイトの数々では、ブラックオニキスは魔除けと日常的なものごとに集中できる効能があるという。オニキスは種類によって水に弱いから塩などで浄化しろと書いてある。ちと後悔した。
翌朝、鉱物としてのオニキスを検索した。石英だという。
子供の頃に持っていた鉱物標本では、方解石と石英、雲母が好きだったな。みな四角い結晶。あれ ? 四角い結晶に思いを馳せることで精神の安定を図ると、ちかごろ読んだ気がする。調べた。水晶も石英。
(あとで読み返して思ったが、雲母は六角形だっけ)
この指輪の石はとくに多孔性のオニキスでもなく、水に晒しても劣化しないだろう。なんだ、ふつうの水晶と同様に意識し、取り扱っても良いのか。ほっとして睡眠のほかのほとんどの時間、身につけていた。あまり日常の仕事に気分が向いたとは思えなかった。木曜日までは。
金曜日。外出して人の気配にあてられ、アヤシイからと外していた指輪を再びつけた。多少は精神状態が違うね、もちろん自己暗示もあるだろう。そこは区別しない。
しばらく用事のために歩きながら至った結論。私の場合、石に力があるとしても自分のコンディションのほうが強いのだとわかる。多少は変動する。だが、ずっと身につけていても効果はわからない。補正された調子の中で左右されるから。
むしろ石に私が与える影響のほうが強いのではないだろうかと、自分の気配が四角の結晶に収束され整うイメージをもってみた。わりに気分が良い。
夕刻から娘に会い、この指輪を娘にしばらくはめさせてみた。気に入られたが、さすがにサイズが彼女には大きいからねだられはしない。とはいえ見せびらかすだけというのも気分が悪いので、そのての石ショップにも食後寄る。
500円でけっこう大きな、手に握れる大きさの原石タイプ型の水晶をまた私用に買ってしまった。娘と喫茶店で本を読むときに卓上に置いたり、帰路に握りながら意識を向けてみたり。
そうね。コリを覚えている肩に当て、四角い結晶を経由してコリが出て行くイメージの補助にする。これは効く。コリが軽減する。それは自己暗示も含め、あるいは石にもし力があるとしても、そのイメージを本人が描かず人に押し当てられたのでは何の役にも立たない、かもしれない。少なくともこれほどの効果はないだろう。
娘とみた石、たとえば月長石に彼女は惹かれていた。結晶の形がどうだかしらないが、これに集中して効果があるとしたら、石英に託す直線の動線ではなく、むしろ円に近いものだろう。適切なイメージがあって、私ははじめて石に効果を期待できた。
少年のころの私は、日常にむける覇気や力強さがないと虎目石を求め好んでいた。だが予算の都合で珠のかたち。集中するといえば珠の中心に向けるという固定観念があった。それでは、覇気も力強さも得られないよな~。
今年六月、若い人に マルセイユ版タロットで占いをするのための解説書はありませんか
と問われて小一時間話した。
要約すると、マルセイユのためのタロット本がたとえあったとしても意味はない、と答えた。それはなぜか。
タロットという遊びの札が意味を確立し占いとして当たると一般的に言われるようになったのは、深読みの結果としてさまざまの智慧が付加されたウェイト版が世に出てからであり、さらに日常的な局面の出来事に当てはめて価値のある言葉が多いと認知されるようになったのはニューエイジといわれる世代のエデン・グレイが、その時代に合わせて平易で日常的な解説をしてから。それ以前のカード本来とされる意味を知っても占いには役立ちにくいということだ。現代の日本に生きる話相手にとっては。
この会話のあとマルセイユ版 タロットのABC
なる書籍が出たが、未だ読んでいない。
先日、アマチュアなタロット遣いが私ふくめて四人で茶話会をした。雑談がメインであったが、使い方や読み取る意味が、同じ名前の並べ方をしていてもそれぞれに違うということから各自の占いの披露となった。いや、私ひとり人に伝えるための占いがとびきり下手だという馬脚を現わしたのだが、それはともあれ。
私の使っているラビリンス・タロット の画では、慣れていないし見て分かり辛いと大変に不評。
何年かカードをろくに触らなかったあと、このデッキで引くようになってからいろいろと考察が深まったのだが。それは何故だろう。なぜ私は、ウェイト版のタロットを解釈のよすがとしながらこの札を使っているのか、という話。
フランスに四年いた。日本人学校でフランス語は落ちこぼれたが、絵画・彫刻・教会などの建造物・街並みに触れていた。また日本語の書籍に飢え、父の主に探偵小説で主に構成される蔵書を貪り、なかに翻訳の古典・名著がたくさんあった。八歳から十一歳のことだ。
それである程度ヨーロッパ語圏の文化に触れていたが、タロットに出会ったのが十一歳。帰国後に本格に熱中したのが、十三歳から十六歳だ。書籍のほとんどない頃。また瞑想の材料にすると良いと勧められたのがウェイト版を買った理由なので、ひたすら画をみて、画から学ぼう。それだけで智慧を得られると勘違いしていた。
ウェイトがデザインを指示した (数札のほとんどは画家パメラの功績ではないかと伊泉氏は指摘している )札には、様々の象徴、寓意が埋め込まれている。その一つ々々を頭で解析した。いわゆる図象学だ。
美術館に連れ出されて眺めていた画や彫刻、翻訳小説の中の個々のエピソードが頭の中で熟成されたのだろう。わりとヨーロッパの文化の言葉でものごとを考える部分が大きくなった。おかげで直観優位に思いつき喋るのとあいまって、同じ日本語ではないと言われること、自分でも思うことも多々あるという欠陥もできたが。
その結果、私の頭のなかにはウェイト版の画が灼きついていると同時に。ウェイト版の画を見ると個々のシンボルを言葉で、日本語で解釈し個々に捉われる という大変に大きな不具合があるようだ。
他の画を見て、頭の中のぼんやりしたイメージとしてのウェイト版の全体像を思い出すことによって、はじめて言語から構成するのでなく、イメージを連鎖させることが楽になったのだろう。
ほとんどの人の参考にならない、私だけの理由。
広義のオカルト
の言葉はアヤシイ。当たり前だ。一見すると理路整然と語られているが、実証されていない、信じがたいアヤシイものを一括りにして世間でオカルトというのだから。
直観を言葉で論理づけようとしたもののうち、実証不能なものをオカルトという。言葉に表現するのは、どこから否定できるか、否定できる部分はないかを自分で検証するため。そして直観はこれまで生きてきた体験や、個々の資質から現れ出る。似た体験をもち、似た資質をもつ人にしか伝わり得ないし、同じ文化の言葉でないと伝わらない。
神話的な体験(ヌミノース)のあと、いきなり日常のロジックに走り人はバランスを取る。
ユング自伝 Iより抜粋・要約
言葉なんていうのは、体験した人のかいた汗のようなものだ。それを読んで同じ領域に行こうとすること自体、発想がずれている。だから 大事なことは言葉ではつたわらない
といわれる。
オカルトの原義は 秘儀
(→補足1 )、弟子にしか伝わらず、隠しているといわれていた。隠すのではない。必要なときに必要な助言をすることによってしか伝わらないものがある。(→補足2)
と言っている私が、若いころから乱読した本から組み合わせた言葉で喋っているだけで師匠と呼べる相手はいないというのも矛盾だが。
しばらく前に買って、今日やっと一気に半分目を通した本がある。あなたの人生を変えるタロットパスワーク実践マニュアル
。アッシャー界だ、なんだとアヤシイ言葉がテンコ盛り。著者の松村さんは古典文献に詳しい方だから、そんな言葉がポンポン出てくる。知らない言葉は読み飛ばすコンディションがないと読めない本だ。
マラソン選手がマラソンの体験を振り返って語った言葉を読んでマラソンが上達するか。するわけがない。所々の、あぁこれわかるという部分だけを読むしか役立てる手段はない。
オカルトで高みに至ると信じている人は、せめて登山記と登山の方法論に喩えろと言うだろう。私はその説はとらない。高さに意味はない。それは個々の内的体験。価値があるのは人生で生み出した現実の成果。錬金の庭から採れる収穫と思っている。
そしてつくづく思う。ローティーンでヨガから禅に至る瞑想の技法をしり何度も体験したが。それはそれで自分の生活からより多くの知恵を効率的に導く役に立ったが。
個々の他人の役に立つ智慧は生活を多くこなさないと得ることができない。また言葉で伝えることに意味がない以上、生活で活かすことのできない部分、ものや実証可能な説を産み出せない言葉が単体では意味がない、と。瞑想そのものではどんな言葉で導かれても人生は変わらない。
また、共通の資質からはみ出した個々の感覚・体験をアヤシイから社会生活を送るために隠す技法、という意味でも秘儀なのではないかと疑っている。
タロットカードの中で人に伝える書籍を持っているのは女教皇、隠すもの。
相手の話をまず受け取り、相手に合った言葉を適切に選んで喋るものだけが、知恵を伝えられる。もちろん全部は伝えられない。誰も全部は受け取れない。
という言葉を自分の都合で晒すことの矛盾があるわけだが
真善美と評される部分と、悪と捉えられる部分の両方をもつ人が、そのお互いをつなぎ、相手のどんな側面にも対応しうる言葉を伝えられるだろうという、仮定された理想の教師、だと今は捉えている。
あのときは素直に読めたし、そんなことでもなかったら会えなかった父との酒盛りで気が収まった。だがそのあとに引くコートカードは……
あとになると分かるし、そこに示された人に会うと、いや遭うとものごとはすんなりうまく行くのだが。札を引いた時点で誰のことかわかることは仲々ない。
近頃は「どうせ会えるのだろう」と解釈を諦めている。
今日も日常の用をしていて、この半年て類似の問題で頻繁に出た金貨ジャックを、11歳の自分の娘にあてはめると全て得心がいくのに気づいて膝を叩いた。
なるほどね。外出先で参照できるいくつかの記録を当たった範囲ては、確かに娘で実現している。そういえば、あのとき電話で話した、などなど。
すでに子供でなく少女であることは疾うから認識していたが、しかしこれは父親として気づきづらい盲点だよな……