2010-09-18

内的体験と伝達 ( inner experience and communication )

広義のオカルト の言葉はアヤシイ。当たり前だ。一見すると理路整然と語られているが、実証されていない、信じがたいアヤシイものを一括りにして世間でオカルトというのだから。

直観を言葉で論理づけようとしたもののうち、実証不能なものをオカルトという。言葉に表現するのは、どこから否定できるか、否定できる部分はないかを自分で検証するため。そして直観はこれまで生きてきた体験や、個々の資質から現れ出る。似た体験をもち、似た資質をもつ人にしか伝わり得ないし、同じ文化の言葉でないと伝わらない。

神話的な体験(ヌミノース)のあと、いきなり日常のロジックに走り人はバランスを取る。

ユング自伝 Iより抜粋・要約

言葉なんていうのは、体験した人のかいた汗のようなものだ。それを読んで同じ領域に行こうとすること自体、発想がずれている。だから 大事なことは言葉ではつたわらない といわれる。

オカルトの原義は 秘儀(→補足1 )、弟子にしか伝わらず、隠しているといわれていた。隠すのではない。必要なときに必要な助言をすることによってしか伝わらないものがある。(→補足2)

と言っている私が、若いころから乱読した本から組み合わせた言葉で喋っているだけで師匠と呼べる相手はいないというのも矛盾だが。

しばらく前に買って、今日やっと一気に半分目を通した本がある。あなたの人生を変えるタロットパスワーク実践マニュアル。アッシャー界だ、なんだとアヤシイ言葉がテンコ盛り。著者の松村さんは古典文献に詳しい方だから、そんな言葉がポンポン出てくる。知らない言葉は読み飛ばすコンディションがないと読めない本だ。

マラソン選手がマラソンの体験を振り返って語った言葉を読んでマラソンが上達するか。するわけがない。所々の、あぁこれわかるという部分だけを読むしか役立てる手段はない。

オカルトで高みに至ると信じている人は、せめて登山記と登山の方法論に喩えろと言うだろう。私はその説はとらない。高さに意味はない。それは個々の内的体験。価値があるのは人生で生み出した現実の成果。錬金の庭から採れる収穫と思っている。

そしてつくづく思う。ローティーンでヨガから禅に至る瞑想の技法をしり何度も体験したが。それはそれで自分の生活からより多くの知恵を効率的に導く役に立ったが。

個々の他人の役に立つ智慧は生活を多くこなさないと得ることができない。また言葉で伝えることに意味がない以上、生活で活かすことのできない部分、ものや実証可能な説を産み出せない言葉が単体では意味がない、と。瞑想そのものではどんな言葉で導かれても人生は変わらない。


補足1

また、共通の資質からはみ出した個々の感覚・体験をアヤシイから社会生活を送るために隠す技法、という意味でも秘儀なのではないかと疑っている。

補足2

タロットカードの中で人に伝える書籍を持っているのは女教皇、隠すもの。

相手の話をまず受け取り、相手に合った言葉を適切に選んで喋るものだけが、知恵を伝えられる。もちろん全部は伝えられない。誰も全部は受け取れない。

という言葉を自分の都合で晒すことの矛盾があるわけだが

真善美と評される部分と、悪と捉えられる部分の両方をもつ人が、そのお互いをつなぎ、相手のどんな側面にも対応しうる言葉を伝えられるだろうという、仮定された理想の教師、だと今は捉えている。

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