今年六月、若い人に マルセイユ版タロットで占いをするのための解説書はありませんか
と問われて小一時間話した。
要約すると、マルセイユのためのタロット本がたとえあったとしても意味はない、と答えた。それはなぜか。
タロットという遊びの札が意味を確立し占いとして当たると一般的に言われるようになったのは、深読みの結果としてさまざまの智慧が付加されたウェイト版が世に出てからであり、さらに日常的な局面の出来事に当てはめて価値のある言葉が多いと認知されるようになったのはニューエイジといわれる世代のエデン・グレイが、その時代に合わせて平易で日常的な解説をしてから。それ以前のカード本来とされる意味を知っても占いには役立ちにくいということだ。現代の日本に生きる話相手にとっては。
この会話のあとマルセイユ版 タロットのABC
なる書籍が出たが、未だ読んでいない。
先日、アマチュアなタロット遣いが私ふくめて四人で茶話会をした。雑談がメインであったが、使い方や読み取る意味が、同じ名前の並べ方をしていてもそれぞれに違うということから各自の占いの披露となった。いや、私ひとり人に伝えるための占いがとびきり下手だという馬脚を現わしたのだが、それはともあれ。
私の使っているラビリンス・タロット の画では、慣れていないし見て分かり辛いと大変に不評。
何年かカードをろくに触らなかったあと、このデッキで引くようになってからいろいろと考察が深まったのだが。それは何故だろう。なぜ私は、ウェイト版のタロットを解釈のよすがとしながらこの札を使っているのか、という話。
フランスに四年いた。日本人学校でフランス語は落ちこぼれたが、絵画・彫刻・教会などの建造物・街並みに触れていた。また日本語の書籍に飢え、父の主に探偵小説で主に構成される蔵書を貪り、なかに翻訳の古典・名著がたくさんあった。八歳から十一歳のことだ。
それである程度ヨーロッパ語圏の文化に触れていたが、タロットに出会ったのが十一歳。帰国後に本格に熱中したのが、十三歳から十六歳だ。書籍のほとんどない頃。また瞑想の材料にすると良いと勧められたのがウェイト版を買った理由なので、ひたすら画をみて、画から学ぼう。それだけで智慧を得られると勘違いしていた。
ウェイトがデザインを指示した (数札のほとんどは画家パメラの功績ではないかと伊泉氏は指摘している )札には、様々の象徴、寓意が埋め込まれている。その一つ々々を頭で解析した。いわゆる図象学だ。
美術館に連れ出されて眺めていた画や彫刻、翻訳小説の中の個々のエピソードが頭の中で熟成されたのだろう。わりとヨーロッパの文化の言葉でものごとを考える部分が大きくなった。おかげで直観優位に思いつき喋るのとあいまって、同じ日本語ではないと言われること、自分でも思うことも多々あるという欠陥もできたが。
その結果、私の頭のなかにはウェイト版の画が灼きついていると同時に。ウェイト版の画を見ると個々のシンボルを言葉で、日本語で解釈し個々に捉われる という大変に大きな不具合があるようだ。
他の画を見て、頭の中のぼんやりしたイメージとしてのウェイト版の全体像を思い出すことによって、はじめて言語から構成するのでなく、イメージを連鎖させることが楽になったのだろう。
ほとんどの人の参考にならない、私だけの理由。
0 件のコメント:
コメントを投稿