2010-02-19

演算する夢

夢の周り

神秘的でもデモーニッシュでも、もちろん私が信じていない霊的なものでもないが、おもしろい夢をみた。(「見た」でも「観た」でもない)

註 : 霊的なものがあるかないかは知らない。自分が信じていない内容の夢はみないと確信しているだけだ。他の体系で解釈可能な間は、みないことになるね。

あるコミュニティで言えたら良いと願っている内容を将来発表したときに、どういう反応を各人が示すかを、演算してくれる夢だ。

昨夜はなかなか寝る踏ん切りがつかず、誘眠剤に頼るかどうか迷いながら眠った。寸前のアナログ時計の夜光塗料は3時を指していた。

体感ではなく、本当に長く夢をみていたのだろう。というのも、何度か繰り返し自分の寝相を感じ、これは携帯電話から本当に投稿・閲覧しているのではなく夢なのだと識り、そこから改めてならば次は何をみんなに話そうかと 現実の 意識で考えて、また夢の中のそれに投稿したのだから。

夢と幻視との定義的な区別は曖昧だ。まして、意志・主体が現実の側の意識にあるものは、どちらと言ってもずれがある。現実や日常寄りの話だから怖くないよ と強調したくて、今回は夢と表現している。

一通りの関連する質問を了えて、空腹もあって夢から日常に戻ろうと決めたとき、寝具の中で夢をみただけだったのではないかと考え時計をみた。5時。流石に2時間はない (体感で20分程度、たぶんもっと短い) から、睡眠も摂ったのだと分かった。

眠る前も、目が醒めてからも、身体を楽にするためのストレッチと考え事のほかは手につかなかったから、寝具の中にいた 睡眠時間 は6時間くらい。

こういう夢を意識してみることができたら、昔ならば 夢占い , 水晶占い を名乗るのだろう。私は単にイメージの演算と解釈する。

でも、これくらいのヴィジョンをみてこそ、ブログ URL に名乗った Image Gazer に相応しいと、誇らしく思っているのも事実だ。

余談

とりたてて言う気はなかったのだが、雑談の中で他の二人が符合した夢を今朝みたとわかり、ぼかした形で内容の一部を明かした。

良い夢を口外すると、実現の可能性が薄れる という古い日本の言い伝えを思い出した。

人に明かしてなにが起きるとも思わないが、平安貴族の社会、夢にもたせた意味をコミュニティ全体が信じていた頃ならば、政治闘争をしていた頃ならば。

誰かにとっての吉夢は、別のひとにとって面白くない夢であることもあっただろう。

同僚を妬んで、直截の言葉で解釈をねじ曲げ、あるいは呪術、噂を使って 夢違え をすることもあっただろう。

さすがに、それは面白くないから言わないだろうと、平安貴族に同情した。

2010-02-18

過去記事改変履歴

過去記事に手を入れても、RSS に反映されないのか。

<ins> タグとは別に、記録を残すためのページが必要だね。

2010-02-17 : 昼に引いたカード (2009-12-27) に [太陽] のカードについて考察を追加

しばらく新しい記事は停滞すると思うが、過去の記事に手を入れるたびにここに書くことにする。この先に新しい記事があっても、履歴用のページはここ。

2010-02-14

まるで物語のように

2,3 日前から兆しはあったが、今朝から完全に、タロットが読めなくなった。

これだけ願望が強ければ、世界の解釈に他の可能性が入り込む余地がないということだろう。少なくとも、今は。

認識や考察が逃げたわけではないので、この文書は続く。

2010-02-10

予定項目

書きたいと思っていながら、日々の進捗に追われて自分でも忘却しそうなことがらをメモっておこう

まず、手元に図書館のダグラス本「タロット」(河出書房新社 1995 ISBN4-309-22428-8) がある。ここからふたつ引用して書きたい。

ひとつは、タロットの起源は麻雀(の原型)じゃないかという話。浅見先生の麻雀ページからも対応するページを探して引用しないといけないので、時間がかかりそう。

カバラの本質は、もともとは国を統治するための心得じゃないか、という考察がもう片割れだったかな。男性原理と女性原理

もう図書館に返した、もう一冊のベルヌーイの文庫、錬金術とタロット ( Rudolf Bernoulli / 種村季弘 1972改訂版) の最初に収録された話。錬金術の庭 だったかを読んで、人が生きながら諸相を変えること自体は、螺旋階段を上がるような進化の道 (内藤本「瞑想」) という今までの解釈から拓かれ、変化して巡るところからの収穫に意味があるのではないかと考えるようになった。

四元についての考察も、膨れ上がり過ぎていて、処理に困っている。なおかつ自分の認識方法として通り過ぎるときがそろそろ近づいている気配だ。

概要として、1) まず人間の認識が、一年を四季に分けているのではないかということ。なにかをみると、二軸4つの要素で考えようとする、文化・思考形態、もしくは生存競争の結果得た認識があるのではないか、と。

軸が複数あるという認識が、物事にふたつの特性・分類を考えたときに、対立か直交かを考え踏みとどまる力になる。

次に、地水火風おりおりの関係。棒(農夫) は聖杯(宗教) を使い(生み)、聖杯は金貨(商人)を使い、金貨は剣(兵)を使う。棒と剣とは対立。聖杯と剣とは並立。金貨と棒とは無関係。

たんなる旅先の思いつきのつもりだったが、けっこう他でも有効。勝ち負けを一方的な矢印、対立を拮抗する矢印、並立はまるまって伸び縮みするコードのような線で結んだ図が手元にあって、これを清書してからあげたい。(無関係は破線なんだが、技術的に清書できるか)


以下、本当に未整理の走り書き

火の思考、感覚とクンダリーニヨガに近い感覚、情熱、熱狂

水の情緒、やさしさ、理解。

水は剣では斬れない。また物質(=土属性、金属) としての剣は錆びるが、水も剣を害さない。ましてや風と水ならば、まったく並び立つ

与太っぽく読めるが、コンディションと人の感覚の各人のパラメータによって、わかる人もいる。わからない人もいる。そのあたりを表現するならば、分析ではなく小説の言語になる。

2010-02-08

決断

まる三日くらい考えている内容がある。

方針を決めたところで、やっとカードを引いてみた。ケルト十字。

結果 ? 近い未来は [運命の輪]、最後の一枚は皇帝(逆)。

結果はわからない、決めるのは自分、どう転んでも大きな転回。私らしいや。

街の占い師さんが客に告げたら怒られる内容だが、私が私のために引いたカード、出した卦としては、これにまさるものはないだろう。

2010-02-07

かまたきみこ "KATANA" にファンタジーを感じた

ふと二年近く前に買って、何度か読み返した漫画「虎落」(かまたきみこ KATANA シリーズ2巻 2007) を手にとった。

河合隼雄のいう ファンタジー 、心の物語と読めた。ことに第三話「蠱都の刀」。

掲載誌「ホラーM」にありきたりな展開だといえばそれまでの話。刀の精がスピリッツてあり「たましい」なのも気がつけば当たり前。

問題は受け取り手との波長の合致なのだなぁ、というのが今日のこの記事のキモ。

2010-02-05

対人に引いたタロット

ふと時間が空いて、携帯から送信したメールを読み返していた。各種の blog への投稿や、私的なメモが多い。

先週気まぐれに引いた実占記録がでてきた。

何人かの知り合いを一人ずつ思い浮かべて一枚引いたものを 「いまの私にとってどんな位置付けか」として並べ、下に「対応すべき自分の顔」としたもの。

五日経って読むとなるほどと思った。なぜ腑に落ちるのかの理屈を考えるのは放棄して、書く。


私にとっての位置付け、6枚のうちにコートカードが4枚、数札・トランプ各 1枚。

お会いしたことがあるにせよ、文章だけにせよ、互いにリアリティのある、人間としての個性の付き合いには、きっちりコートカードが現れる。

トランプは、原型に支配され、投影された関係。数札(2〜10)は個性を見いだす以前の局面の投影。

各スートのエースは未解釈だが、今までのほかの実占記録を思い返してもそんな感じだ。

こちらが向けるべき相は、数札5枚、トランプ1枚。

現実の紙の札を使っている限り、上に出た札は出ないからね。当たり前といえばそれまで。だが示すべき単相は数札かトランプで妥当だ。

右手のための珠

人形の夢を視てしばらくして、夢にでるけものに解釈する頃から、左手を意識してデモーニッシュな力を活かそうとしてきた。

そろそろ右手/ロジック/生活/律法から、こちらをないがしろにするなと言われる気がしてきた。

新宿紀伊国屋ビルで、そんな意識と願いを託するならば護り石はどれかと勘で決めた。名前は憶えていない。

左手のエネルギーを制する = 時に応じて抑圧する気持ちで選んだが。右手で玩ぶと左に応じて活発になる気分。

石の性質か、自己暗示かはどうでも良い。

左手に意味をもたせた、同じ意思で右にも意味をもたせた。それだけ

夢からきたアイデア

夕方から眠り、三時間ほど前に起きた。目を醒ます前の夢について、ずっと考えている。

個人の認識・概念を、原型や神話の喩え話ではなく、コンピュータ言語に似た文法で表現する夢を見た。

(「視た」ではない。もっと現実よりの階層)

オブジェクティヴな、C++ や JAVA に似た構造をした、単語は日本語を使った言語だった。一行で大きな変化を表せる、圧縮した言語。

つきつめて使えば、実用的だと思う。

この夢で、同時に近頃よく会った人の頭部のイメージもみた。私の夢に、実在の人間が現実そのままの姿で出たのは、記憶にある限り初めてだ。

(人物ではなく、その立体イメージだから、正確にはずれるが)

抽象と現実の両方に対して、同時に鮮明なのは面白い。あたかも根を深く張らないと、樹木が高くは繁らないかのようだ。

言語で何を表現したのか、どう表記したのか、まだ具体的に思い出せない。

私にとって考え続けるに値する内容だと思うのだが、まだ準備が整っていないのだろう。思い出した(再構築できた)ときに、他人に話せる内容だとも限らないが。

2010-02-04

アニマについて、迷ったがこちらに記載した晩に

アニマについて、迷ったがこちらに記載した晩に、おもしろい夢を視た。

影に隠れた黒ずくめ黒頭巾の、数人と共に物語を紡いでいく夢だ。

風景、登場人物などを語り、私を含めた全員の認識が一致するたびに、その立体映像が彼らとの間に現れる。

夢だと自覚していて、映像から自分の好きに展開したいと欲するが、それはできない。

いくつかの映像を視たが、ひとつしか持ち帰らなかった。和風の顔立ちだが輝く肌色と同じブロンドの少女の顔。

一ノ関で読んだ「とりかへばやを読む」で、「夢に出る異性は重要な意味をよく持つ」とあり、私の夢に出る異性は、思い出せる限り、ふたつ例外はあるが、セクシャルな印象だと考えたばかり。

10月に観た夢の、右手の向こうでいっしょに歩いていた女性。未記載の初夢に観た、三人組の泥棒の中のふたりの老婆。

2010-02-02

アニマのシャドウ

今日、面白おかしく騒いで、普段の私の嫌う女性ならばこんな発言をするのではないかという見立てを幾つか書いた。

袂を分かった知り合いの発言にそれぞれ似ているよな、とは感じていた。

小一時間して思った。これが私の心の女性性の、さらに圧迫された部分。女性性のシャドウだ。

アニマのシャドウという言葉が浮かぶ。だがむしろ、女性性のシャドウを外部に投影し、それを取り込もうとしながら自覚無く、惹かれたと認識するのは、元来の観測されるシャドウそのものだろう。

これを投影していたから、これを向こうが演じていたから (文章に上手くまとまらないが、現象として相手に投影された姿を演じることが起きたと感じている) 私は度を失い、相手は不快に思うのか。


演じさせられている自分は自分ではない、と。