2011-06-24

ユング心理学のアヤシサ ( Jung is scientist , but most of jungian murky )

日本いがいの国において、ユング心理学は眉唾・きわもの扱いされている。
日本だけ特殊なのは、河合隼雄氏が世知にも長けたカウンセラだったからとしか言いようがない。

人間としては、たしかにユングは、極端にいろいろの直観が当たる人であった。
初対面の人間について第一印象だけで、どんな仕事で成功する、失敗するなど口走ってしまい、高確率にピタリと当たるとか。似非オカルト(*) な人は予言者とか霊媒体質とかいう。

でもね。ユングは自分の直観を一生疑い続けたんだ。たしかに、あまりにも自分にとっては自然な直観をうっかり口走ったこともあるけれど。

ユングにとって、直観も重い夢も幻視も、疑いつづけ、理屈でいつか説明がつくと信じながら後世のために記録を残しつづけ、検証し続ける対象だった。けっして盲信するものではなかったのだよね。ただ、現在説明がつかないからといって、無碍(むげ) に否定はしなかっただけ。

あたまからの否定はしなかったから、説明 (もっともらしい仮説) がついている科学の一部分だけを宗教と盲信するひとからはアヤシがられ、説明がつかない現象や感覚に囚われているひとからは「偏見をもたずに接してくれる」とありがたがられた。

だがしかし、彼は「そういう現象もあるように思う」と言っているだけ。現象に検証できない説明をつけようとするひとは、もはやユングのミームを継いでいない贋者。

同様に「存外に多くのひとが感じている」というのが事実であるとき、軽視したり否定したりするのは学究の徒ではないわけだが

(*) 似非オカルト = 本来の意味では、オカルトという言葉も「直観や体感を重視しながらも、疑いつづけ、否定しつづける」だと私は思っている

2011-06-22

6 suits for meditional etude

introduce

Mysticism is only a language , tool for access another 's deep mind. There 's no reason for original higher thinking . It's only amusement.

神秘主義なんて、他人と心を通わせ、本人すら自覚しない部分に直接に話しかけるための言語/道具に過ぎない。

私が頭の整理のために、こう考えると論理的に綺麗だなどという内容を考えるのは単なる一人遊びだ。娯楽であり、ジョークだと思ってもらえたら良い。

main

胸にぶら下げた十字架のペンダントを見ながら、大アルカナは心の深層・原型であり日常ふだんに使うものでもない。その封印のために四元/小アルカナの四つのスーツがあるといつもの考えを弄んでいたとき。体感として胸中に擬せられる原型を封印するのに封印は四つの方向のみで良いのかという考えが浮かんだ。

上下左右のほかに前後、六つのスートを仮定するのが自然だろう。

我が友 TOMYZ に ピアズ・アンソニーの100枚タロット の話をしたとき、彼は 100枚という数字を敷衍して二つのスートカード 20枚を加えようと夢想した。彼はエーテル体・アストラル体といった従来の神秘主義の枠組みを愛しているからであり、その着想を聞いていたことは6つスートがあっても良いという自由を私に与えてくれたが、しかし全く無関係な枠組みを私は考えてみたいと思う。

  • ball - chain (前進と保守。前方と背後。従来でいうならば ball は wand でありfire )
  • coin - air (物質・日常・関係-しがらみ- と孤独、あるいは放浪、空想。丹田root - 頭上crown)
  • cup - sword ( accept - judge , emotion - logic , left - right )

TOMYZ 君と違い、100枚にする気もないし、それぞれのスートにコートカードがあって然るべきだと思う。

chain と coin の働きが従来のスート coin に混在し、fire を前に進むべきものと捉えることによって小アルカナ 40枚に従来置かれてきた意味合いが整理できることは楽しい。そして体感としてイメージするのにきわめて有効に働く。

このやり方で体感するのに唯一困ることは、あまりにのめりこむと右半身と左半身がばらばらに乖離しそうになることだ。オカルトは空想野遊びであって、度を越すと日常に害があるということ。劇的な副作用に注意。

cant read cards now

承前

仏教の説話で次のような話がある。

子供が死んで悲しんでいる母親が、釈迦にすがった。

釈迦は死んだ人が一人も出たことのない家を探して、そこの家から穀物を分けてもらい育てて食べたら、きっと子供も生き返るよと答えた。

母親は一軒々々の家を回り、死んだ人の出たことのない家を探した。

どの家にもかつて死んだ人があり、死んだ人の思い出や、死者を出したときの苦しみを聞く機会となった。


母親は、ふと楽になって子供の葬式を出すことができた。

この5年

私もまた。
元妻に追い出されて独り暮らしをするようになって、一年後に自分の荷物のなかにタロットカードがあることに気づき、ふと筋の通るカードばかり引けるようになっていることを発見した。

麻雀にヒキと呼ばれるものがあるように、カードにもヒキがあり、今はヒキが強い時期なのではないかという解釈と、自分の読みの幅が広がってどんなヒキでも読めるようになった (ただし現実に即しているかどうかは別問題) という解釈ふたつのどちらだろうと実験を重ねた。

それから二年後、一度だけ。二週間だけ。カードが読めない時期があった。どんなカードを引いても、良く解釈することしかできない、自分のひとつの人間関係にしか当てはめることができない、という時期が。

当時は認識していなかったが、恋をしていたのだと今は言える。

自覚していなかった恋に破れてから、カードの付き合いからの人間関係を深めていった。

だれとであれ、同じ失敗をしたくなかったから人付き合いがうまくいくようにという意識だったが。

一度も仲違いをしたことのないカップルを探していたのかもしれない。


そんなカップルはなかった、のかな。

この5日

土曜日からかれこれ四日間。またカードが読めない時期が続いている。

前回の、良く解釈することしかできない状態でなく、現実に即していると思うにはあまりに無理筋なカードばかりが出る。

カードが目先の航路を示すなら、きっと航路ではなく行き先を検討する時期なのかとも思える。

不条理だけど、ヒキはまた復活すると思う。

筋が通るカードばかりと思えるようになった最初これは今だけのことだろう。また筋が通らないと思えるカードの並びを引くようになったら三年カード引くのをやめようと思っていた。

今は、また今の課題、自分の方針が固まれば、きっと二週間程度でヒキは復活するだろうとぼんやり思っている。

べつにヒキが復活しなくても困らないような生き方・方針になるのかもしれないけれど。

2011-06-14

占いと主観 ( reality for two )

極端なはなしから始める

鼻の穴に筆を突っ込んで馬・鹿とそれぞれ十回書け(© 藤代健) という結果が自分を占って出たとして従うのか。他人を占って出たとして、言えるのか。


従わない、言えない。

どんなにカードを振りかざし、筮竹を振ろうと、自分独りでは言わないアドバイスを言うべきではない、というのが私の持論。

いや、筮竹振れませんよ。偉そうな小道具の例です


学校に行く気力が湧かなくて悩んでいる子供がいたとする。

本人の悩みを聞いて札を引いて学校に行きなさいと読めたとして言えるか。少なくとも私は言わない。

どんな客観的に正しいアドバイスでも、それができれば苦労はしないて結論を押し付たのでは意味がない。


自分の常識から外れた結論は読めないように、相談相手の常識から外れた結論だって言っても意味がない。

そんな結論しか読み取れないときはごめん、あなたの悩みにまだ同調できていないから結論が出ないというしかない。


だから、占いは当たるところまでは最低限の当たり前。実際は当てているのではなく、相談者にとっての真実がなにかを確認するところから始まるのだから。

相手と自分の共通認識を紡ぐところから会話が始まるのは、どんな話題でも、どんなツールを使おうと同じというだけの話。


……と当然のことを殊更に書くのは、たんに私が共通認識を紡ぐのが苦手、よく自分の認識だけが暴走するからなのだろうとも思う

天足通 ( Abhijna )

仏教のほうでは、悟りを開くと六つの超能力を得るという。


修行して悟りとやらをひらくまでもなく、他心通といえば人の顔色、雰囲気で相手がなにを考えているかだいたい見当がつくこと。

天眼通といえば、ちょっとした雰囲気の流れに敏感に反応して、目の届かない場所でなにが起きているかありありと心に浮かんでしまうこと。

天耳通といえば、聞こえるはずのない細かな音が聞こえること。


どれも精神が過敏になってしまうと通常におきること。

うっかり過敏になって日常生活ができなくなってしまった人を、日常の責務から隔離して回復を図る ( = 出家 ) ための施設が昔の寺なのだから、なにひとつ不思議はない。

天耳通はちょっと注釈が必要ですかね。

神経が過敏になると、横を通るタイヤのきしむ音、道行くひとの足音が、だいたい聞き分けられてしまいます。

ただし、目でも見えている場合に限る ……私の体験の範囲では


さて、天足通。

ふつうの人の想像を超えたスピードで一か所からよそにたどり着く能力。


大したことはない。

修行の過程としてであれ、うっかり浮世離れした生活をしたのであれ、慢性的な栄養失調や寝不足の状態が続くと、神経が過敏になって速足になる。

ついでに金もなかったり (昔だと乗り物がそもそもなかったり) すると、一晩歩き続けて 50km とか、それほど珍しいことでもない。

ま、20km 以上も先まで歩こうと思いつめること自体が、ふつうの精神状態じゃありえませんやね :=)


そこからさらに回復し (シッダルタは苦行をやめて栄養と睡眠を回復させたことは周知の事実) 精神状態がだいたい安定すると。

身長が伸びたわけでもないのに、いままで通ってきた、よく知った道のりが妙に短く感じられるようになったりする。

武道のほうでは、相手の隙をついて近づけるようになることを「縮地 (しゅくち)」と呼ぶけれど。

武道でも修行の過程で過労に陥ったあとで回復するのはよくあることだったろうから、縮地という感覚に陥った、だろうと思う。

いや、単に私が自宅の近くも、学生時代の肉体全盛期に歩いた京都も、やたらと目標までの距離が短く感じられて拍子抜けしているだけなんですけどね


……てなことを考えながら夜の散歩を終了しました。

30年前の記憶をたどりながら六つの超能力のことを書きましたが。いまパソコンの前で Wikipedia などみると、天足通ではなく神足通と書いてあったりします。

天足通と書いてあるウェブサイトもあるから、まぁ異説には事欠かないのでしょう。

( 坊主が「ふつうの人にはありえない。仏陀は偉いひと」と主張したくて、殊更に超能力としてはやしたてるからいけない。と、思います)

4時間後に追記

上記だけだと、神経過敏万歳な誇大妄想と取られても仕方がありませんね。

いままで何度もこのブログに書いているはなし、くりかえしになりますが、追記しておきます。

神経過敏である状態、座禅のほうで魔境というのでなかったかな。つまり、なんでもありありと確信をもててしまう。この状態にあるときに感じること、予感することの中には楽天的すぎる妄想も、悲観的すぎる妄想も、すべて含まれています。

修行とか占い、けっして日常・一般の生活が送れている人のためじゃないというのが私の持論。うっかりたくさんの未来や目の届かない場所での現実を演算してしまう人が、言ってもよいこと、言わないで自明に結果が分かるまで口をつぐみ・個人的な備えはしつつも検証を待つことを分別するためのものと思ってます。

王子シッダルタが仏陀と呼ばれるようになるときに、なにを悟ったのかなんて検証不能。僕らがせいぜいたどり着ける、身近な悟りって、こんなものじゃないでしょうか。

どんな能力も、100% の確度で実現したら人間気が狂います。それは人の身に過ぎた能力。

どんな確信も、どんな実績も、次の一回は間違うかもしれないと思い検証を続けることが、正気を保ち、日常に回帰するみちだと。

2011-06-06

整体マッサージを受けた ( chiropractic)

2,700円40分のクイック・マッサージを受けました。 生まれてはじめての、被マッサージです。

去年の春に「視える」人、他人の両肩と頭上と三箇所に (現実の視覚とは違う) 色が見えると言っていた人から「左肩から先がおかしいだろう、私と手をつないだら楽になるよ」といわれたころに凝りを自覚して。

その人と喧嘩わかれしてからより酷くなって、ヨガや腕立て伏せで自分の力で治そうと思っていたのだけれど、偶々日曜日にマッサージを受ける機会がありました。

私が京都に居てた二十代のころは、マッサージ師といえば気学をふりかざす、オカルトがかった人が多かった。 (いきつけの酒場で、何人かの卵にあったことがあります)

いまは、物理・生理の側面として対処してくれる人がいるのだなとうれしかったってのが店を出て一番の感想でした。

ま、精神が「原因である」ことは多かろうから、 気学、オカルトな原因をまったく排除するのも決して良いとは思いませんが。

「霊的にまとわりつかれているのと、きっとあの人に怨まれまとわりつかれていると確信しているのとの区別はつかない、つける必要はない」てのが持論なので

精神が問題であれ、症状としての肉体のあれこれを治さないと、立ち向かう元気も出ることはありえないから、なにが原因にしても対症は大事。
うつ病に薬が「対症として有効」なのと同じです。

おととしから去年、ちょうど「手をつないだ人」と知り合う直前まで、私は薬なしで欝と対抗するために河合隼雄の本を読みふけっていました。

めどがついたころに「手をつないだ人」と知り合い、話を聞き「「視えるのはつらいのだな、なんとか楽になる視点を提示できないか」と、カウンセリングや、河合著作と同時期に復帰したタロットの視点からあれこれ検討して

母親ゆずりの霊媒体質なユングの自伝も読み、ずっと考えていました。

「その人に怨まれている」て確信だけでなく
「私も、喧嘩で突き放されたことで怒りつづけている。怒っていることを自覚できて、自分の怒りを宥せてこそ、喧嘩の相手の怒りも認めることができる」
と思えたのが土曜日の朝。

私は自分が関与している自覚はなかったけれど、 離婚の前の一年強、元妻が「てもみん」に通っていたのは、ロジックと過去の約束をつきつけるだけの私に元妻が追い詰められていたのでしょうね、なんて逆の立場からもきづいたりします