2011-06-14

天足通 ( Abhijna )

仏教のほうでは、悟りを開くと六つの超能力を得るという。


修行して悟りとやらをひらくまでもなく、他心通といえば人の顔色、雰囲気で相手がなにを考えているかだいたい見当がつくこと。

天眼通といえば、ちょっとした雰囲気の流れに敏感に反応して、目の届かない場所でなにが起きているかありありと心に浮かんでしまうこと。

天耳通といえば、聞こえるはずのない細かな音が聞こえること。


どれも精神が過敏になってしまうと通常におきること。

うっかり過敏になって日常生活ができなくなってしまった人を、日常の責務から隔離して回復を図る ( = 出家 ) ための施設が昔の寺なのだから、なにひとつ不思議はない。

天耳通はちょっと注釈が必要ですかね。

神経が過敏になると、横を通るタイヤのきしむ音、道行くひとの足音が、だいたい聞き分けられてしまいます。

ただし、目でも見えている場合に限る ……私の体験の範囲では


さて、天足通。

ふつうの人の想像を超えたスピードで一か所からよそにたどり着く能力。


大したことはない。

修行の過程としてであれ、うっかり浮世離れした生活をしたのであれ、慢性的な栄養失調や寝不足の状態が続くと、神経が過敏になって速足になる。

ついでに金もなかったり (昔だと乗り物がそもそもなかったり) すると、一晩歩き続けて 50km とか、それほど珍しいことでもない。

ま、20km 以上も先まで歩こうと思いつめること自体が、ふつうの精神状態じゃありえませんやね :=)


そこからさらに回復し (シッダルタは苦行をやめて栄養と睡眠を回復させたことは周知の事実) 精神状態がだいたい安定すると。

身長が伸びたわけでもないのに、いままで通ってきた、よく知った道のりが妙に短く感じられるようになったりする。

武道のほうでは、相手の隙をついて近づけるようになることを「縮地 (しゅくち)」と呼ぶけれど。

武道でも修行の過程で過労に陥ったあとで回復するのはよくあることだったろうから、縮地という感覚に陥った、だろうと思う。

いや、単に私が自宅の近くも、学生時代の肉体全盛期に歩いた京都も、やたらと目標までの距離が短く感じられて拍子抜けしているだけなんですけどね


……てなことを考えながら夜の散歩を終了しました。

30年前の記憶をたどりながら六つの超能力のことを書きましたが。いまパソコンの前で Wikipedia などみると、天足通ではなく神足通と書いてあったりします。

天足通と書いてあるウェブサイトもあるから、まぁ異説には事欠かないのでしょう。

( 坊主が「ふつうの人にはありえない。仏陀は偉いひと」と主張したくて、殊更に超能力としてはやしたてるからいけない。と、思います)

4時間後に追記

上記だけだと、神経過敏万歳な誇大妄想と取られても仕方がありませんね。

いままで何度もこのブログに書いているはなし、くりかえしになりますが、追記しておきます。

神経過敏である状態、座禅のほうで魔境というのでなかったかな。つまり、なんでもありありと確信をもててしまう。この状態にあるときに感じること、予感することの中には楽天的すぎる妄想も、悲観的すぎる妄想も、すべて含まれています。

修行とか占い、けっして日常・一般の生活が送れている人のためじゃないというのが私の持論。うっかりたくさんの未来や目の届かない場所での現実を演算してしまう人が、言ってもよいこと、言わないで自明に結果が分かるまで口をつぐみ・個人的な備えはしつつも検証を待つことを分別するためのものと思ってます。

王子シッダルタが仏陀と呼ばれるようになるときに、なにを悟ったのかなんて検証不能。僕らがせいぜいたどり着ける、身近な悟りって、こんなものじゃないでしょうか。

どんな能力も、100% の確度で実現したら人間気が狂います。それは人の身に過ぎた能力。

どんな確信も、どんな実績も、次の一回は間違うかもしれないと思い検証を続けることが、正気を保ち、日常に回帰するみちだと。

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