2,700円40分のクイック・マッサージを受けました。 生まれてはじめての、被マッサージです。
去年の春に「視える」人、他人の両肩と頭上と三箇所に (現実の視覚とは違う) 色が見えると言っていた人から「左肩から先がおかしいだろう、私と手をつないだら楽になるよ」といわれたころに凝りを自覚して。
その人と喧嘩わかれしてからより酷くなって、ヨガや腕立て伏せで自分の力で治そうと思っていたのだけれど、偶々日曜日にマッサージを受ける機会がありました。
私が京都に居てた二十代のころは、マッサージ師といえば気学をふりかざす、オカルトがかった人が多かった。 (いきつけの酒場で、何人かの卵にあったことがあります)
いまは、物理・生理の側面として対処してくれる人がいるのだなとうれしかったってのが店を出て一番の感想でした。
ま、精神が「原因である」ことは多かろうから、 気学、オカルトな原因をまったく排除するのも決して良いとは思いませんが。
「霊的にまとわりつかれているのと、きっとあの人に怨まれまとわりつかれていると確信しているのとの区別はつかない、つける必要はない」てのが持論なので
精神が問題であれ、症状としての肉体のあれこれを治さないと、立ち向かう元気も出ることはありえないから、なにが原因にしても対症は大事。
うつ病に薬が「対症として有効」なのと同じです。
おととしから去年、ちょうど「手をつないだ人」と知り合う直前まで、私は薬なしで欝と対抗するために河合隼雄の本を読みふけっていました。
めどがついたころに「手をつないだ人」と知り合い、話を聞き「「視えるのはつらいのだな、なんとか楽になる視点を提示できないか」と、カウンセリングや、河合著作と同時期に復帰したタロットの視点からあれこれ検討して
母親ゆずりの霊媒体質なユングの自伝も読み、ずっと考えていました。
「その人に怨まれている」て確信だけでなく
「私も、喧嘩で突き放されたことで怒りつづけている。怒っていることを自覚できて、自分の怒りを宥せてこそ、喧嘩の相手の怒りも認めることができる」
と思えたのが土曜日の朝。
私は自分が関与している自覚はなかったけれど、 離婚の前の一年強、元妻が「てもみん」に通っていたのは、ロジックと過去の約束をつきつけるだけの私に元妻が追い詰められていたのでしょうね、なんて逆の立場からもきづいたりします
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