無自覚に使って他者を混乱させる = 暴走を防ぐためにオカルトという体系がある。密教という体系がある。
多少の意図を込めたとはいえ、よくぞアヤシイ体系ばかり並べたものだ。
ほかにいくつかの体系を心に挙げようとして、山岳信仰はアリ、森田療法は違う。でもなぜ森田療法を含める気にならないのだろう、と引っかかっていた。
そののち、図書館で 宗教の闇 (宗教への問い)
という本に遭い、ぱらぱらと流し読みして疑問が解けた。
小乗仏教も、その流れを引く密教も、十八世紀に人の心を扱う体系として再解釈/再構築された錬金術も、自己の内側を見つめることに主な目的をおく。
逆に、旧約聖書、ユダヤの民が放浪する団体生活で生き残るための約束事を十誡にまとめたところからまとめられた律法を基盤におくキリスト教は、社会を円満に動かすためのノウハウから始まっている。森田療法も、個人を社会に融和させるための体系。
自己の内側をみつめ、そこから社会に還ってくることができず、むしろ社会から構成員を引き抜き同類に引き込もうとするようになると カルト
と呼ばれる存在になる。だが社会に還ってくるという目的に目を奪われては、未言語の部分が自分のなかにあると認めることはできない。
必然、自己の内側をみつめる道はアヤシイ目で見られることになる。ムツカシイね。
すでに社会と自分との齟齬を感じていて、このままだとアヤシクなってしまう人が、アヤシイ体系で底までいって還ってこようとしているのだと認知してもらえたら良いのではないかな。
西遊記
に記載される昔の中国は、社会に融和するための仏教、自己をみつめる手援けをするための道教のふたつが並立していて、互いに尊敬を払っていたが。現実には当時の中國とて、そう円満だったわけではないだろうと思うんだ。
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