2012-09-26
思いを天に委ねて ( 6:Lovers )
く今年の春、あれは五月だったか。青空の下で本を読みながら、長らく会っていないひとを一方的に呼びつけて、くるか・こないか分からぬまま待っていた日があった。
そのときに気づいたのだと思う。すべてのイザコザ、心配を天に任せて、やってくる事態を受け容れようとするのには、このカードを心に描くと良いと。
マルセイユ版の図柄から解釈して、このカードに選択・決断といった意味をもたすことは多い。少なくともキャプションそのままに、単純に恋愛関係と考えることはしない・ありえないとは前から思っていた
が、天なるものに心を任せて現実に向かうという解釈に思い至ったのははじめてだ。今まで文献に読んだこともない。
だが78枚のカード、ことに心に対する重大な指針となるトランプ(通称大アルカナ)の中から必要なカードを探せば、それしかないだろう。
(太陽は能動的だ。影を隠して人前で笑ってみせる無垢のカード。愚者は無知であり、子供がときに残虐であり、ときに公然と下ネタを口走るように危うい)
描かれた天使はラファエル ( Raphael )
その象意は 神は癒される
( It is God who health
)
2012-09-22
The Death
「死神のカードは悪いカードじゃないよ」と大アルカナ22枚で遊んでるようなひとには、よく言うし、それもまた正しいのだけど。
「これはカードに意味を求めても仕方ないだろ。現実を見て打開策を考えなさい」てときに私は(78枚から)引くね。で、滅多に出ない。これもまたみごとに。
それほど現実がシリアスというわけでなく、ただ相手のプライベートだったりして深淵だったりして「この問題について、この側面から、これ以上考えても意味ないよ、有害。立ち入るべきじゃない」てときはワンドの9。こっちはよく、引き当てる。恥ずかしながら
二人だから一人 ( 5:Highelephant )
先週月曜祝日、初対面の五歳児、その母親のタロ友三人で食事をした。
その道行きで「どうです、一枚」といわれて引いたのが法皇だ。
なかなか打ち解けなかった五歳児が、食後に「ここで地面にお絵描きをして良いか」と訊いた。
少し微妙な土地だったが、もし管理者に怒られたら私が謝れば済む話だし、責任がとれる範囲だと覚悟を決めて「それくらいなら良いよ」と応えた。
男児は目に見えてリラックスしてお絵描きを始めた。
その母親もすっきりとした顔で、景色を味わいそこらを散歩していた。
「ふたりでひとり」今春に発達心理学の用語として読んだ言葉を思い出した。
保護者が見守っているからと安心して、児童は一人遊びできる。
神様が見守ってると思えばこその安心感で晴れ々々とするひともいる。
カードとつながったな、と思った。
龍穏庵のかたがた、ありがとう
2012-09-12
神は人を招ばない ( Fake spiritualism and Japanese aminism )
神様も、土地も、人を招ばない(呼ばない)。
人が、そこに何らかのヒントがあると感じ、日常・現実に疲れたときに訪れたくなるだけ。
そして得てして平仮名のスピのひとは、日常を放擲して訪れた土地に、何らかの救いや指針を見いだす。
たまたま、それは本物かもしれない。
だが間違いであることのほうが多い。
勘違いでも思い込みで今までになく懸命に勤めた結果が、今までにない効果を呼ぶことは多いけどね。
神秘的な結果を求めるのは贅沢。
日常を離れたこと自体にふつうは価値があるのに、なぜか平仮名のすぴ信者は、それ以上の神秘体験を求め、錯覚する。
2012-06-19
信仰しないがおろそかにもしない (Not trust but think with respect )
十日ほど前私はスピリチュアリスト(=信仰者)ではないと書いた。
そのさらに十日ほど前に書いた幽霊の正体みたり枯れ尾花
とも被るが、もう一回書きたくなった。
オカルティストでありながらスピの信仰者ではないということは、なぜそう考える/感じるほうが、ひとが生き延びるために合理的だったのか
を考察し追求するということだ。
たとえば神社に毎日の参拝を欠かさずに口をゆすいでいたほうが、歯磨きの習慣や道具がなかった当時は長生きしやすく、結果として信仰のある人のほうが生き残りやすく、信仰をもつ人のほうが多く現在まで生き延びたろうと考えるように。
2012-06-17
読書記録・はづき虹映 ( How say to fake spiritualipts? )
スピリチュアル女子のルール
を読んだ。はじめて聞く名前の著者だ。
私は自分がスピリチャアリスト(=信仰者) ではないと断ったうえで、「平仮名のすぴはよく xxtという間違いをしているから、日本のすぴ文化は良くない」という。
この本は、「私はスピリチュアルな人間で、本当のすぴならば xx という考え方はしませんi。こう考えます」という。
どちらも言っていることは同じなのだが、著者の言い方のほうが耳には優しいのかと思いながら読んだ。各論の一部に肯じえない部分はあるが、総合的に言っていることは納得。平仮名のすぴの人に渡すなら、こんな本が良い。
マイナスの事象が起きるのを恐れるから、自分にとってプラスの出来事を望み、引き寄せようとする。マイナスの事象を恐れているという時点で、それはマイナスの事象を引き寄せる結果になる
( Rule 7 ) なんて見事な言い方だ
2012-05-29
幽霊の正体見たり枯れ尾花 ( Simple Definetion or Pride , of Modern Occultist )
幽霊に見えたから幽霊なのだと言って譲らないのがえせのスピリチュアリスト (平仮名のすぴ)
幽霊の正体は枯れ尾花じゃないかと鼻で笑って顧みないのがえせの科学主義
なぜその人に枯れ尾花が幽霊と見えたのかを客観(統計)で考察するのが科学者
なぜ多くの人に枯れ尾花が幽霊と見えるのかを、追体験の中から考察するのがオカルティスト
枯れ尾花が幽霊に見えることがつらいって気持ちを分かち合うことで、見えても怖くないと思えるところまで共に歩むのが臨床者
私は心理学の臨床者でも、占術の臨床者でもなく、オカルトの臨床者なのだろう。
龍眼に龍は見えない ( Sylpheed is nor one of gods, nor daemon )
思いつき
龍の眼に龍は見えない。
龍の眼に見える龍は、神格化された東洋の龍でも、化け物として恐れられる西洋の龍でもない。自分と同じ、自然のひとつの存り様(ありよう) に過ぎまい。
同じく自然な一人の人間が龍をみても、自然の営みとして素直に受け入れられる存在として認識されるだろう。それは例えば風の流れ、雲の動き。
ここまでが最初の思いつき
展開
人の身で龍がみえるならば、聖なるものや邪悪なるものがそこにあるように見えるならば。
きっと本人の心・認識が本人のあるべき状態・基準となる座標よりも、ほんの少しだけ自然から人間社会・人工的なものに偏った認識になっているのだろう。
自分に害を与えるほどに未開で荒々しくない、いわゆる(ひらがなのすぴ族が使う俗な言い方で)ぱわぁすぽっとと称する、そんじょそこらの神社や遠くの空の自然が畏怖すべきものにみえるのは、より人工的な社会を基準とした心の有り様にシフトしているから。 ……ではないかな。
生霊だ、死者の霊だ、憑き物(ケモノ)だといったものがみえる人が、同時に自然の龍だ、自然神だといった存在を感じたという じつわれぽーと
という代物を見たことがないのが、その傍証となるだろう。
その手のものを見るひとは、きっと、本来のあり方よりも少しだけ自然のほうに近寄り過ぎている。
精霊の声を、いたずら者の人間的な声として聴いたと畏れるひとがいた。彼女はきっと、人間の世界にもっと寄っているべき認識の座標が、少しだけ自然の側にシフトしている。
女性に振られてしばらく悶々としていた男性が、あるとき白昼に想い人の、まだ聴いたことのない性交のときのあられもない声を聴いてしまったと悩んでいた。彼はきっと、失意によって禁欲を極めた果てに、本来のセクシャルな状態よりも、少しだけ行儀良く生きすぎてしまったのだろう。
思いつきは多分正しい。展開はもしかすると 気がついた一つを以ってすべてを説明しようとする
罠に囚われている可能性がある。
2012-05-26
悪魔祓いの資格 ( Who license exorcist ? )
数人の雑談で、「君はエクソシストに会ったことがあるか」という話題になった。
ある人は、ヴァチカンから悪魔祓いの許可を認められた神父のうち最後の世代と語る人に会ったことがあり、生きていれば六、七十の高齢だろうと語った。
ある人は、アメリカからきた聖職者で、教会から認められた、少なくとも聖職者としてはインチキではないエクソシストに最近会った、若かったといった。
「そうですね、では悪魔を決めるのは誰でしょう」
と私は仲裁した。
「日本の神様だって、キリスト教圏からいえばデーモンです。
祓っても良い悪魔、祓う必要のない精霊を見分けるのはそれぞれの信仰です。
だからヴァチカン=カソリックと、アメリカ発祥の別のキリスト教で、ひとつの事例に対し『これは悪魔だから祓って良い』という判断は違ってもおかしくありません。
ならばカソリックが認める悪魔祓いの神父の最後の世代より若い、自分の宗派で悪魔祓いの認可を得た牧師がいてもおかしくはありませんね。
ルーテルンがエクソシストを認めるとは思いませんが、アメリカは広いし、他にもキリスト教の新しいの(=プロテスタント)は沢山ありますから」
悪魔祓いをする聖職者なんて、もしいるとしてもヴァチカンの認可だけが正しいと小説の設定を読んで思っていたが。
考えてみれば有名な映画はアメリカ産。
人は自分の信じる神さまに従い、ほかのものを悪魔と決めつけ祓うよね。
神さまの数だけ、悪魔・非悪魔の分類はある。
2012-04-21
姑獲鳥の夢 (Reptilian is a dream of dead fetus )
長く考えたくもなかったのだが、機会あってイメージを想像すれば、これは産まれ得なかった胎児なのだろう
とまっすぐに気づく。幻視をみながら気づかない本人たちが可哀想に思えるほど明白だ。
今回、この件を書こうと検索すれば。たとえばイギリスの王家に嫁いで虐げられたダイアナ妃が、そんな幻想に襲われたという。
愛する人を得ながら不実で、別の女性に子供を産ませるのではないか。自分は子供を得ることはないのではなかろうか。かわいそうな、私と、愛する人のあいだの産まれなかった子供。そう思ったときに幻視に見舞われるのだろう。
2012-04-08
中道 ( Its difficult keep balance of tarotists )
他人を占うのは面談/臨床であり、相手の気持ちに寄り添わないといけないと最近書いたけれど。
自分が他人との人間関係でカード引いて、あまりにも適切な・できすぎたカードが出たら「やー、こんなの出ちゃったよ。適確すぎるだろ。参ったね。自分でもこの表現は思いつかなかったね」て、いわばカードと結果への惚気を言いたくなることは多々ある。( いや、いまあったのだが )
しかしながら、相手のあることだから、ふつうおおまっぴらに言うことはできない。
カードと結果への惚気を共有したくて、このケースだとこんな答が出るんだよとわかってほしくて、他人に誇るために他人を占う人になりたいっておもうこともあるだろうなと思う。
そんな思いで引いたカードは、たいがいは誰の内的現実をも映さないのだけれどね。
逆に、他人について占った結果を人に言いうべきではないという思いが強すぎると「当たるのは当たり前じゃない。『そういうもの』だよね」と日常に落とし込みたくなる気持ちもある。
これもまた「この一回」という臨床の気持ちを忘れ、惰性でカードを引いて、誰の内的現実をも映さないことになりがちだ。
毎回の結果に新鮮に驚きながら、驚きや喜びを人と分け合いたいという気持ちを抑える。そんなバランスはとても難しい。
2012-04-03
「星占いのしくみ」を読んだ ( BookReview , Clinic and Astorology )
承前
星占いの仕組み
(石井ゆかり著、平凡社新書 2009年) を読んだ。
占星という体系をきちんとしる本としては今までめくった中では最適の本であり、同じ方向から占いにアプローチしているがゆえに、師匠であり名義が共著になっている鏡リュウジ氏と足並み揃えた誤謬、アクエリアン・エイジの罠にハマっているところが目についた。
古典の西洋占星をしる意味
前に 占星の時代
て題名で歴史的な占星の成り立ちを否定したくらい、わたしは賛命全般、占星を占術としてはまったく否定している。
だがタロットの文献を読むことが、自分に似た心の形としてウェイトやレビの心を味わう病跡学であり知的に楽しめるならば、占星の文献を同様に読むことも楽しいだろう。概念を抑えておかなければ、占星語で話すひとの言葉も理解はできても共に語りときに反論することはできない。
科学史・天文史・哲学史。そしてタロットの一環として錬金の考え方を知っている以上、話をきいて理解することはできる。聴けば理解できるが、星の運行に心を囚われるひとの気持ちを理解するには、概念を把握しておくことが必要だ。
ところが、いままで手を動かして理解する
たぐいの問題集、サルでも分かるxx
にギリシャ神話と錬金の雑学を加えた程度の本しか見たことがなかったのよね。今回ぱらりとめくって、はじめて総花的に理論のさわりだけを説明し、流派によってこれこれの扱いが違うといった周辺情報がきちんと載せてある書籍をみつけたと思った。その期待は裏切られなかった。これが前半。
占星を臨床として使う
後半になって著者・石井ゆかり氏の主張が現れる。過去の心理学を基盤にした心理占星こそが自分の求め築いてきたことであり、同じ道の先達である鏡氏とどのようなことを考えていたのか、と。
そういえば鏡氏は、(商売がうまくて良いデザイナさんをつかまえ、場所に合わせて適切なことをいうという印象のほかに)、河合隼雄追悼のムック (たしか この本 )に寄稿して、ユング心理学をオカルトの代替として捉えるものとして、日本でいかがわしくないようによくぞ広げてくれたと感謝していたな。
余談だが、先日に読んだ近代スピリチュアリスムと宗教
には、ユングは自分が確信している信仰を自分の用語で説明したにすぎないのに、それを科学でお墨付きが得られた、一致していると騒ぐアホがいる。一致しているのは当然だろ、アホ
と要約できるツッコミがあった。さらに余談をいえば、この本で説明したミューラーて古い宗教学者の言葉 ~ときに・スピリチュアリストに援護のことばとして誤用されるが~ が、自分のこれまで、ここのブログに書き溜めていた事柄の姿勢とほぼ同一で ニューエイジを継ぐ者と銘打っているのに、それより前じゃないか
と落ち込んで更新が滞っていた。閑話休題。
鏡氏がどう河合氏を尊敬しようが、私淑しようが、利用しようが構わないのだけれどね。
河合隼雄が言いたかったのは 面談/臨床 という技能の素晴らしさ
であり、面談/臨床のあとに自らを振り返り自省する枠組みとして心理学を使えば心理のカウンセラ、宗教を使えば宗教のカウンセラだ。自らを振り返るのに占星の枠組みを使い、占星語で語れば、それは占星のカウンセラであるというに過ぎないだろう。
心理学というアカデミーでなく、面談/臨床という技能自体が素晴らしいと説こうとしたのに、面談/臨床のひとが自らを誇らずに心理学という言葉や看板に逃げるかね
職業の邪魔をしない程度の範囲で、河合さんならばそう苦笑したことだろう。
2012-03-29
邪眼 (Evil Eye)
我知らず、不幸の気配・前兆を感じてまじまじと眺めてしまう人は、まわりからは邪眼の持ち主とみられてしまうのだろう。
When you often feel unconsciously the sign of unhappy or unlucky and keep your eyes , they call you Evil Eye
2012-01-24
今年の信仰告白 (Confession 2012 , draft )
この二年、何度書いたかわからないがもう一度書いておく。私はスピリチュアルな現象は起こることを知っているが、スピリチュアリストではない。
ひとみ翔の古い単行本を手に入れた。(略)
私はこういった現象を体験するひとがいることをしっているし、誰がいつ体験してもおかしくないことを知っている、自分も含めて。にも拘わらずスピリチュアリストではない。
- 解釈しない
- 重ね掛けしない
- 服わない
それぞれの詳しい説明も手帳に書いてあるし、後日書くが。服わないということはスピリチュアリストではないということ。