2010-04-24

偶然に遇う才能 (ability of meet)

再録

Q. タロットの数札の意味が憶えられません

A. 自分について引いたカードをメモっていて、あとで検証して当たっていれば印象深くなって自然に頭に入ります。

Q. 当たらなかったら?

A. いつも認識にそぐわないカードしか引けないなら、意味を憶えても仕方がありません。そんなときは蔵っておいて、また思い出して触りたくなるまで寝かせましょう。

素直に答えたら、傲慢ともいえる答になってしまった。だが、すべて体験と実感。

当たるってなに ?

当たる・当たらないという言葉には意味がない。認識にそぐわない札と、そうも考えられる札があるだけだ。

筋の通った解釈ができてしまう札を引くようになっていたから、改めてタロットをやりだした。直勘が暴走するようになったから、自覚して直勘による推測は自分の解釈、見えている範囲でふつうに解ることはここまで、と隔離するために夢やタロー札の向こうに押しやったと表現することもある。

当たらない札しか引かないで済めば幸せだと思うが、当たる = 納得する札を引くならばそれを無視しないほうが良いとも思う。無自覚の認識は、把握しておかないと容易に思い込みとして人を誤らせる。

当たる札を引く?

どういう時に人は「当たる」札を引いてしまうのか。やりたいこと・やるべきことと、それは違うという気持ちが入り雑じり、判断に迷うときが一番多いだろう。

つまり、自分の気持ち(=直観)の根拠がわからないときにカードを引くと時に直観を理解できる札を引き当てるということだ。他の札だとして、別の説明で納得し得たのか、それもまた正しいと言えたのか。その話は措く。

「偶然」に遭う

街を散歩し、知らない道や自然の変化が顕わな景色を見るのが好きだ。無自覚に思考に影響を与えていた外部の要因や、未言語の思考を意識させてくれる風景に、よく出遇える。意識のもち方ひとつで。

東京には寺社がたくさんある。目的地を決め、方角だけを把握して気儘に歩いていると。すぐに寺社に遇う。

由来を読み、祀られる神やヒトの名前を知り、その神話・民俗学的なイメージに想いを馳せれば、たいがい今考えている事柄、悩んでいる内容のヒントになる。私には今そういう、道に迷う才能もある。神話や民俗学への知識・理解を背景として。

たぶん同じ能力。札のほうが持ち運び・取り扱いが楽だが、しょせん正逆の位置を考慮に入れても156通りの意味・印象しか示さない。解釈は曖昧で、人により状況によって違っても仕方がない。

2010-04-19

ようこそ (Welcome to Tarot Journey)

一昨日と逆に、今日はこんな文章を書いた。「面白そうなのでタロットカードはじめてみたいと考えています。今日はじめて占い師さんに鑑定してもらったら疲れたのですが、こういうものですか ?」という記事に応えて。

話題に対応できたのか、単に私の気分の問題か、それは判らない。間違いという気はしていない。現実の相手・状況に対応できているかどうかとはべつに、これもまた私の引き出し。

タロットカードを題材・媒介にするかどうかではなく、占い師さんとの相性や場の雰囲気が重要ではないかと思います

ふつうに話しても重い話題を、30分なり一時間、対面の一対一で話したら疲れますよね。

商業の占い師さんは、つらくならないように気を使われると思います。さらにベテランになって、重い話題をどうしても相談者自身に向き合ってもらいたければ、疲れさせるのもやむを得ないと感じて普段と違うやり方をなさるでしょう。

重い話題、人生の問題に向き合えば。進展があるほど手応えも重いですよね。

対面の相手に任せきらず、自分で問題に向き合おうとタロットの世界に惹かれたのでしたら、ようこそ。

英語圏のかたはよく Tarot Journey と表現されます。現実の世界・心の世界。ふたつの旅を楽しみましょう。

現実・日常の問題から逃げるための精神世界は要らない

2010-04-18

女教皇 -Sacerdotisa-

トランプ2番。

足して20の対応、対処しないと悪いことが起きかねない不安・心の影 = [18:月]との対比で、未発達の心の機能からの影響かな…… と2,3日考えていた

[感覚-直観],[論理-感情]の、私でいえば感覚や感情の影響ね。訓練していないと無自覚で暴走する。怖い、怖い。

そのあとに話題が挙がったり、昨日の [健康な人が近づく必要がない] て主題のあと、さらに考える。

一般の、健康に日常が送れている人は無理にすべての心機能を発達させようともがくことはない。

危機に陥って、全力で立ち向かわないといけないとき。今までの遣り方で日常を送るのが無理で変わらないといけないときに自省するのは良いだろう。

だが健康に日常が送れているときに態々、毛を吹いて傷(瑕疵)を求めることはない。


「神経症の患者は社会のアンテナ」てことばを思い出した。一部の、うっかり踏み込んでしまった人だけが社会の危機に向き合い、食い止めれば良い。

どうせ社会の動向に合わせて一定数は発生するのが巫女、生贄の王、Gazer だ。

健康になろうとしている人の、状況を探ろうとしての示唆にこの札が出たら。総合の判断で周りに迷惑がなかったら、そっとしておいてあげたら良い。ヒキに自信があればね。

2010-04-17

昼間にいる人を巻き込むな

公開の場所にて

ある方ペットを引き取るときに、前の飼い主さんからタロットを一枚引くように言われ、xxxを引きました。喜ばれて家族が増えましたが、xxx という札の意味を教えてください

xxxにはoooの意味があります

ある方なるほど、すごい。はじめてタロット触りましたが、引き込まれる気がしました。勉強していきたいと思います

慌ててメールを書いた。

たまたま私は神経を病みかけたときに、三十年近く昔に子供の好奇心で勉強していた札のお陰で日常生活ができる程度に回復しましたが。

正常に生活できている方が、無理に近づくものではありません。

巻き込まれてカードを引かされたら、たまたま元の飼い主さんが安心するカードを引いたからペットがやってきた。それで良いではありませんか。

すでに神経を病んでいる人が、鈍らせずに極端に研ぎ澄ますことで心の危機を乗り越えるための道具。

正常に生活ができている人が、神経を必要以上に尖らせることに意味はありません。

自分が、この元の飼い主さんと似たことをしていないか顧みよう。何度でも。

月と影

トランプ18番、月
心の影

闇がすべてを覆わんとするときに
影だけが薄明を失わず
盲いた人を救うだろう

2010-04-13

夢日記 (Good by Dalls house )

去年の五月頃から、手応えを重いと感じる夢を視るようになった。

この日記、Paradox of night by ImageGazer , 占いやオカルトの話は隔離してひっそり、だが著者を隠さずに書こうと決めてからしばらく、それらしき題材もなく停滞していたら。ひょんなきっかけから夢の話を掘り起こして書くことになって一気に進んだ。

あれから重い夢をいくつ視ただろうか。

重たいが個人的、私の周りの人々に近しすぎる内容で、書くのを控えたものもあった。忘れても良いくらい軽いから忘れる、と起きて決めたものもあった。これは憶えておくべきではないから忘れよう、と夢の中で決めた内容も、起きてから感じたものもあった。

今回は特殊。目が覚める直前の夢の中、考え事をしていたら背景が blogger.com の画面になって、すべてが平面となって張り付いたような感覚で、そのまま立体に取り残されて、夢が終わった。なんだか分からないけれど、ここに公開することに意味があるのだろう。

なにか一年がかりの大きな出来事が、次の局面を迎えようとしている気がする。実占だけでなく夢の記録も、ここに発表するのは最後かもしれない。

相棒

地下街を巡る冒険が終わろうとしている。ゲームのマップのように、連なる広大な部屋の方向感覚を上下・左右で意識している。隣には、男のパートナがいた。

ここに何度か夢の話を書き、旅を意識させるものには少なからず女性のパートナが隣にいた。実在の女性を求めろという意味か、夢の中の表象・心の機能という意味か悩んだ女性。手応えや右隣を歩く感覚でしか捉えられないフェアリィのような女性が。

男性のパートナのいる夢をみたのは初めてだ。靴磨きの組織の重要な役割らしい。この男の仕事の調査と、私が乗るべき地下鉄の駅に向かうのが一致したから、ともに行動してきた。この男とともに、語るべきでない冒険を今回もした。地下を辿りつづけ、私の乗るべき駅の商店街にはいったら、彼とは別れるだろう。また行動を共にするかもしれないが。

永遠の女性パートナと共に夢のけもの = 活力ある賢者 = フィレモン = アニムスと称されるものに会いにいく夢は何度か書いた。フィレモンのほうが同行して、ともに冒険に巻き込まれ、領域を統べる女性たちと別離を告げる夢。

人形の家

記憶を持ち帰れない深い領域、数々の部屋を巡り終え。最後にもう一度、六間で構成される人形の家 の部分を通らないと外に出ることはできない。上下に二、左右に三の部屋で構成される、飾り物で役に立たない家具に飾られた豪華な見掛けの領域を、左下から、右上に。

まず左から右へふた間移動する。真ん中の部屋は、上の部屋からドアのない通路を経て丸見えだ。通ると決める。

パートナから 何やってんだよ と批難された。もうひとつ下の部屋、深い領域を通れば見つからないのに、これでは上を経て公衆に丸見えだ。バリケードに立てた大きな樹のテーブルの陰を通ったとはいえ。

だが無事に右上の部屋につき、右中央の 人形の家 応接間からあいさつにきた女主人の後ろに、監視カメラのモニタがみえて自分が正しかったことをしる。人形の家 を構築し、女主人をここに縛りつけている恐ろしい存在に見つかっていたら大変なのだから。

ここから右の部屋にいけば領域からお別れ。最後に、上に突き出した離れの領域の住人に別れを告げよう。

女たち

離れの右下にあたる部屋から入る。上の部屋と区切るふすまを開けると。三人姉妹の次女が出てきた。

この三人姉妹、長女と 人形の家 の女主人が同一なのか、はっきりとはわからない。

次女は言った。

最初にここでお会いしたときには、殿方が怖くて、嫌いで逃げました。今回は好意をもったから、羞ずかしくておいとまします。

うれしい言葉だが、社交辞令かもしれない。追求しても意味はない。次女は、右下の部屋にある階段を上がって去っていった。

左下の部屋では、ふたりが炬燵にあたっている。ひとりは、三姉妹の従妹にあたる、ふたり姉妹の片割れ。もう一人がよくわからない。姉妹のもう片割れだと思うのだが……

このふたり姉妹と、月の夜に高校のような建物の屋上からハングライダで飛び出したな、とかすかに冒険の記憶、情景が思い浮かぶ。

あいさつを喋っている少女を、ブラの肩紐がブラウス越しにみえるのを意識しながら、どぎまぎせず、過剰にさけず、いままでそんなことができると思わなかったハグをした。

二回目の拒否のことばのさいちゅうに、彼女の右手をとり、甲に騎士の口付けをした。

いやだと三回いわないとツンデレじゃないんでしょう ということばに目をあげると、彼女の目には涙が浮かんでいた。

どんな冒険をしたのだったか考え、この部屋のもう一人をみきわめようとしたときに、背景が blogspot の壁紙になった。

2010-04-09

もう実占記録は上げない

さすがに78の三乗分の一なんて確率を引くと、畏れと狂信を排したあとに残るものは恥。

いつか、誰かが「500,000分の一程度の確率くらいで誇るなよ。ヒキの弱いやつだ」と言ってくれないかな。

2010-04-07

いかがわしく聞こえる言葉について ( murky words) -1-

承前

昨日づけで書いたつもりのざれごと二部が、書いているあいだに日付変わって本日四月七日になってしまい。今日もカード引いた記録と、このネタ書いてしまうと。表に4つも記事が並んでしまう。量が多すぎるのもどうかと思うが、あきらめよう。

ちかごろおぼつかない英語で副題書いているのは、URL にタイトルが入って、あとでわかりやすいからです。

長めの記事につけた小見出しに、html タグの id をつけているのは参照用のつもりで始めたが、体系の違う言語で内容を再確認するのは文章の書き方として悪くない。

シンクロニティ

共時性 と訳される。ユング自身ですら理解されまいと晩年まで公表を躊躇い、日本にユング心理学を持ち込んだ河合隼雄氏も三十年伏せた概念。

カクテルパーティ効果で説明できる部分もある。人間の心の動き、認識として、今までなら意識できなかったものを認識できるようになるものもある。(このふたつ、微妙に違う)

似たようなことを見聞していたひとが多数いると、しばらく接しないでも同じようなことを考えている人が発生する。思考の並行進化 と私は説明する。同じ文化の中、同じ時代に生きているだけで、よく似たことを同時期に考えつく。共感するものがある。これもシンクロニティに含むことがある。

タローカードや易も、よくシンクロニティと言われる。

似たような原因がそれぞれ並行で別の事象に働きかけると、細部で見ると異なっていても、大まかな視点でみると大体同じことになる。量子力学あたりでよく話題になる。あるいはフラクタル。大まかにみると似た模様になる。その辺りがタローや易の卦に通底しそうな気がするが、これは私の勘。まだ論理の道筋は経っていない。

さて、シンクロニティと聞くと、なぜ人は殊更にアヤシク、いかがわしく感じるのか。逆に熱狂してロマンを感じる人がいるのか。ひとつ仮説を思いついた。

共感魔術 (Sympathetic magic) が洋の東西を問わず、伝承としてあるからだ。わかりやすい例で、丑の刻参り。人に似せた形の物質に破損を加えると、人にも危害が及ぶという伝承。

同期(シンクロ) しているならば、その片方に影響を与えることで、もう一方に影響を与えることができるだろうという発想。適用できる例も多い。だが、別の概念と考えるべきではないかな。

似たような原因がマクロで見て似た事象を起こす、これはありそうだ。だが、人為で別の影響を与え、もう片方にも影響が及ぶはずがない。

シンクロニティと共感魔術は別の概念。アヤシイと毛嫌いして遠ざける人の大部分が混同しているのではないかと、先日思った。

集合無意識

上でちらりと書いたが、同じ文化・同じ時代に育てば、似たようなことを考えるひとは多数発生する。

汎用の内容ならば、誰もが考える。考えることがなければ、人と人が分かり合った気持ちになれるわけがない。

心という実体のない概念で、同じインプットを受けて同じアウトプットをする部分を取り出す。それを共有していると解釈するか、同じ働きの回路を各自べつべつに持っていると解釈するか。

どっちだって良いじゃないか。人と人とは、時代が近く、育った文化が近ければ近いほど、高確率で似たことを感じ、考える。それだけの話。

解釈・仮説は、思考操作を楽にするための道具に過ぎない。

実占 2010-04-07

お仕事の関係。トラブりかけたのを、なんとか電話とそのあとのメールの遣り取りで収めたと思ったあと。ふとどんなカードを引き当てるか気になった。

テーマは 今日の私の対応、今までよりは柔軟に対応できたつもりだが、どう評価する ?

どう評価する、と念じながら
King of Wand Reverse : ふむ、まだ高圧的ですか
覆うもの、横切るもの
Wands 8 : 性急かね
根底に流れるのは
Wands 3 : まだ傍観している
表に現れるのは
Wands 2 Reverse: 傍観している
過去をどう捉えている ?
King of Pentacle Reverse : 意固地な支配者
未来をどう捉えている ?
King of Swords : (言語化省略)
自己イメージは
T1:Magician Reverse
傍から見ると ?
Swords 8 Reverse
これからの留意点
Pentacles 7 Reverse
至れるであろう道は
T7:Chariot Reverse

当たる、外れるは検証不能。自分の不安をよく映し、留意すべき点、留意すれば至れるであろう理想像までみごとに筋の通った並びを引き当てた。

余談だが、三日ほど珍しくカードをきちんと整列しなおして持ち歩いていた。意図は 自分の意志で、自分の望む心の状態を選べますように という願いをこめた心の誓い。

よって、今日は混ぜながら一枚選び、まだ混ぜるという方式を繰り返していた。つまりスートの偏りに、シャッフルが足りないという偶然は介在していない。

ざれごと 2. -Suit Card-

剣 = 風 = ロジック

剣3 が怖くない、という話を前に書いた。あまりに情緒的になりすぎた心は、理性で刻むことによって互いに磨かれる。

ふと今日、剣のカードの2〜9、ほとんど全て水が描かれていると思った。ウェイトがデザインしてパメラが描いた画で考えて。

河は無意識からのエネルギー とはよく言われる。剣2 と 剣8 、最大の違いは背後の広大な海と、ぬかるんだ地面だろう。8に至って水が欠如し、地面 = 現実生活とのあいだがごちゃごちゃになった状態、易でいう かと思った。(易について調べ直していないので、これは勇み足かもしれない。)

水が描かれていないのは、4, 7 , 9 。4 と 9 は寝台の上にいて、夢 = 無意識の近くだから、これも水があると考えてよいだろう。

ところで、剣3 , 剣10 において、目を奪われる心臓や死体ではなく剣を主役と考えると、7 に於ける主役はどちらなのだろうね。

盃 = 水

直観 ( Wand ) を起点に考える人々が、最後に優しさ ( Cups ) を得るまでのものがたりではないかと空想したことがある。

いまごろになって、盃 = 水がもっとも尊いと西洋人が感じる理由に気づく。最初に形なく水面を漂えり。光あれとのたまった だ。彼らの感性・文化では、霊性は水と共にあると決まっている。

日本語で十字を切るとき (額)主と (臍)子と (左肩)聖霊の (右肩)御名において と切るよね。霊-マテリアル-パトス-ロゴス と対応させているようにも見える。では、英語では ?

動画をしらべた。(宙空)In the name of (額)the father, (臍)the son, (左肩)and the holy (右肩)spirit か。一致した

7 の冒険

金貨/Disk や 棒が次にくるほど、私の思索は完成しちゃいない。

十字を切る順番が 水-地-火-風 かと思ったとき、ちかごろよく見るカード 7 がひとつの物語になった。

もともと、剣7 はプロメテウスが火を盗んだ話。あるいはグリム童話で名付け親のところから命からがら逃げ出した話などを連想させるとは思っていた。

盃7。宝にも蛇にも目をくれず、直視してはいけないが、その光だけで囚われる宿命に出会ってしまった人。

プロメテウスなり、深淵/黄泉の国から宝を持ち帰るイザナミ、オルフェを共通のはなしとみなせば、棒7 は イザナミの投げた櫛の歯や桃 , 三枚のおふだ と見えないだろうか。見えない ? 私の妄想かもね。

ざれごと 1. -Dream of Hermit-

数秘学なんてない

数秘学なんてない。今の日本なら、早熟な小学生でも数のおもしろい性質を知り単独で楽しむことは可能だ。

私が小学生の頃、クラス40人弱に、少なくとも私含めて四人がマーチン・ガードナのパズル・書籍を楽しんでいた

だが、数の性質に、その頃の常識をベースに日常から考察した内容を当てはめて楽しんでいた知性、それを聞いて楽しんでいた文化は存在するだろう。時間経過に淘汰された考察 = 智慧が読み取れるという価値はある。

昭和の日本人なら逆に語呂合わせで、「ヒトヨヒトヨニヒトミゴロ」(1.41421356 = √2 ) を憶えた。方向は逆だが、同じこと。

なぜ当たり前のことをわざわざ書くのか、といえば。カードの採番におもしろい意図を発見したからだ。

タロー札に出会ってから三十年強が過ぎているから、遅いともいえる。まじめに考察をはじめて一年も経っていないから早いと誇れるのかもしれない。

足して20

[トランプ17:星] はアニマに喩えられるけれど、アニムスはどこさろう。ユング自身ですら豊富な臨床例の中に現れる多くの像の共通項が掴めないと悩んでいるアニムスはと 考えていた ときに気づいた。T11番からT19番は、日常社会で抑圧されがちな心の動きではないかと。

詩的な言い方、タロット・ジャーニーのことばでいえば 山に篭もって自分をみつめ直している隠者の夢 だ。いや、例によって、先にこの言葉のほうを思いついたわけだが。

しかし [T19:太陽] は自由で、自分の内面の昏さを認め外に出さないことを選択した、無垢な存在と解釈したよな。あれは日常の世界に通用する心の動きだろう、と思った次に気づいた。

そうか、自分の表裏を識った上で、世間に合わせるための嘘も平気でつけるような無垢な個性は、現実世界で外から見ると イカサマ師 だ。T1か。

元々、T17 をアニマと観て、対する現実の性的な魅力をもつ女性は T3 に象されるというところから考えはじめた思索。たちまち、T5-T15 , T2-T18 の共通に気づいた。

[T4皇帝] の心性、行きすぎると [T16] の雷にも、また破壊される権力にもなる。

[T7戦車] に蹂躙されるがわの情景が [T13死] という考え、散文的だが整合するよね ? そして人の心、実際日常を大過なくエネルギッシュに動いているときに、裏で抑圧されるものがあり、次のステップに進むために終わらされるものがある。

すると T8 , T11 はマルセイユナンバーでないと、T12 , T9 に対応しない。

これも考えればわかる。十八世紀にはいり、直観が抑圧されるようになった反動で、当時の直観優位者が 昔は良かった という思いが錬金の体系に心のあり方を投影したとは前に考察した。その頃ならば、純粋な正義、裁く心はブルジョア社会で付き合いにくい奴と蔑まれ、抑圧されはじめただろう。占星の体系の天秤、獅子への対応だけでなく、自らの目的なく発達させた力を抑える象意のほうが日常向けだと入れ替えた、とも解釈可能だ。

例によって真偽は検証不能。ただ、そう考えるときれいにまとまるね、というだけの話。どっとはらい。

2010-04-05

馴れ合い文化 ( system , not culture )

馴れ合いで夜の闇のことばを語るなよ。

慰めがほしかったら、昼の宗教に頼れよ。

夜の言葉は、怖い言葉。自分も他人も切り刻む言葉。

傷つけられたと騒ぎ憤るような人が近寄るところではない。

twitter 検索 : #spiritualJP を見ての違和感・不快感と同じものを、さきほどためしに #Jung で検索したら英語の記事にも発見した。

日本だけの話のはずがないだろうとは薄々思っていたが、ユングの名前のほうが、日本語のスピリチュアルと同様の扱いを受けているとは盲点だった。まさにニューエイジの礎となったことを思い返せば不思議ではないのだけれど。


Q: 昼の宗教は社会に適応するため。夜のことばは、自分を突き詰めるため。と言うけれど。では昼の社会に適応できないとき、安らぐためにはどこに逃げたらよいの ?

A: そんな逃げ場所はない。

逃げたいだけで、思索をしない人間という存在。実在の人間として会って話したことはない。そんなもの議論に勝つための仮定じゃないか ?

2010-04-04

アヤシイ体系、アヤシクナイ体系 ( why need mysterious knowledge ? )

無自覚に使って他者を混乱させる = 暴走を防ぐためにオカルトという体系がある。密教という体系がある。

2010-03-31 / 拙文

多少の意図を込めたとはいえ、よくぞアヤシイ体系ばかり並べたものだ。

ほかにいくつかの体系を心に挙げようとして、山岳信仰はアリ、森田療法は違う。でもなぜ森田療法を含める気にならないのだろう、と引っかかっていた。

そののち、図書館で 宗教の闇 (宗教への問い) という本に遭い、ぱらぱらと流し読みして疑問が解けた。

小乗仏教も、その流れを引く密教も、十八世紀に人の心を扱う体系として再解釈/再構築された錬金術も、自己の内側を見つめることに主な目的をおく。

逆に、旧約聖書、ユダヤの民が放浪する団体生活で生き残るための約束事を十誡にまとめたところからまとめられた律法を基盤におくキリスト教は、社会を円満に動かすためのノウハウから始まっている。森田療法も、個人を社会に融和させるための体系。

自己の内側をみつめ、そこから社会に還ってくることができず、むしろ社会から構成員を引き抜き同類に引き込もうとするようになると カルト と呼ばれる存在になる。だが社会に還ってくるという目的に目を奪われては、未言語の部分が自分のなかにあると認めることはできない。

必然、自己の内側をみつめる道はアヤシイ目で見られることになる。ムツカシイね。

すでに社会と自分との齟齬を感じていて、このままだとアヤシクなってしまう人が、アヤシイ体系で底までいって還ってこようとしているのだと認知してもらえたら良いのではないかな。

西遊記 に記載される昔の中国は、社会に融和するための仏教、自己をみつめる手援けをするための道教のふたつが並立していて、互いに尊敬を払っていたが。現実には当時の中國とて、そう円満だったわけではないだろうと思うんだ。

2010-04-03

スピリチュアルについて補足 ( What About *Real* Spiritualism )

日本語でスピリチュアルのレッテルを貼られたくない理由を先日書いたので、今度は本来の意味でのスピリチュアリストでもないが、アンチでもないという話を書く。

江原という人の存在を知らなかったとき、なぜ近ごろスピリチュアルなる単語を良く見かけるのかと、まず定義から調べた。

スピリチュアリズム/スピリチュアリストの正式な定義は、少なくとも以下の条件を満たしていることだという。

  • 人間以上の超意識の存在を信じること
  • 死後に残る人間の個性と交信可能だと信じること

三浦清宏「近代スピリチュアリズムの歴史」(ISBN978-4-06-214675-3)より

私は信じる必要もない、否定する必要もない

思い過ごしだとしても、それは少なくとも自分の願望による深読み。ならば自分の意志として、叶えてあげたければ動けば良い。相手が生者だろうが、死者だろうが、超越の存在だろうが。

それだけ。当人の意志だと思えば、プロセスは不可知で構わない。

錯覚 , 実在を信じる、どちらを仮定しても他人に対する接し方も、生き方も変わらない。

三十年ほど前、教会で洗礼を受けたいと申し出るか考えてから、折にふれ機会にふれ自分に問うて確かめている。

間違いなく、なにも変わらない。