再録
Q. タロットの数札の意味が憶えられません
A. 自分について引いたカードをメモっていて、あとで検証して当たっていれば印象深くなって自然に頭に入ります。
Q. 当たらなかったら?
A. いつも認識にそぐわないカードしか引けないなら、意味を憶えても仕方がありません。そんなときは蔵っておいて、また思い出して触りたくなるまで寝かせましょう。
素直に答えたら、傲慢ともいえる答になってしまった。だが、すべて体験と実感。
当たるってなに ?
当たる・当たらないという言葉には意味がない。認識にそぐわない札と、そうも考えられる札があるだけだ。
筋の通った解釈ができてしまう札を引くようになっていたから、改めてタロットをやりだした。直勘が暴走するようになったから、自覚して直勘による推測は自分の解釈、見えている範囲でふつうに解ることはここまで、と隔離するために夢やタロー札の向こうに押しやったと表現することもある。
当たらない札しか引かないで済めば幸せだと思うが、当たる = 納得する札を引くならばそれを無視しないほうが良いとも思う。無自覚の認識は、把握しておかないと容易に思い込みとして人を誤らせる。
当たる札を引く?
どういう時に人は「当たる」札を引いてしまうのか。やりたいこと・やるべきことと、それは違うという気持ちが入り雑じり、判断に迷うときが一番多いだろう。
つまり、自分の気持ち(=直観)の根拠がわからないときにカードを引くと時に直観を理解できる札を引き当てるということだ。他の札だとして、別の説明で納得し得たのか、それもまた正しいと言えたのか。その話は措く。
「偶然」に遭う
街を散歩し、知らない道や自然の変化が顕わな景色を見るのが好きだ。無自覚に思考に影響を与えていた外部の要因や、未言語の思考を意識させてくれる風景に、よく出遇える。意識のもち方ひとつで。
東京には寺社がたくさんある。目的地を決め、方角だけを把握して気儘に歩いていると。すぐに寺社に遇う。
由来を読み、祀られる神やヒトの名前を知り、その神話・民俗学的なイメージに想いを馳せれば、たいがい今考えている事柄、悩んでいる内容のヒントになる。私には今そういう、道に迷う才能もある。神話や民俗学への知識・理解を背景として。
たぶん同じ能力。札のほうが持ち運び・取り扱いが楽だが、しょせん正逆の位置を考慮に入れても156通りの意味・印象しか示さない。解釈は曖昧で、人により状況によって違っても仕方がない。