2010-03-04

オカルト思考解禁…… しなくて済んだ

友人の住居の上の部屋、普段トラブルを起こしていた住人が自殺をしたという。

多少、凹んだ感じの文章を見たので、厄払いが必要ならば久々にオカルト的な知識を解禁しようかと一席設けた。金銭の都合で私の部屋で。

霊視などもちろん、できない。その手の感覚は、むしろ鈍感なほうだろう。ただ、オカルトな思いで否定的な感情に囚われているならば、オカルトの枠組み、ロジックで気分を変えてあげる必要があると思っただけだ。

殆ど読んだことはないが、京極夏彦の初期長編シリーズに近い考え方だね。

本人が気にしていたのは、トラブルが周囲にも知られていたので、自殺に追い込んだのは自分と思われているのではないか。住み辛くなるのではないか、というだけだった。オカルト論を炸裂させずに済んで助かった。

何度か、ここで書いているがまた書く。

オカルトと言われる、科学で未解明の部分。そのロジックを納得することは私にはないだろう。だが対症としての体系は、ある。それを識っていることは損にはならない。必要なときもある。

今回は引かずに済んだし、引いたとして的確な札の並びを得ることができたか。それは解らない。だが、タローカードを引き解釈をするということは、世界に別の解釈を与え、名付け、再生する作業。そう捉えていることを自分で再確認できた。

事象と現実のあいだには、常に解釈が介在する。科学の言葉であれ、オカルトの言葉であれ、解釈によって世界を塗り替えていくことができる。それも人の能力のひとつ。

友人は、私よりも科学による解釈が難しい出来事に何度か遭い、そういうこともあると受け入れているそうだ。伏見神社の鳥居の中を歩き方向を喪い、暮れに出会ったはずの人と家を朝に見失い、墓地の跡に白いもやを見たことがるという。

それらを、たとえば推理小説の枠組みで解釈することもできる。だが本人が気に病んでいないものを無理に解釈することもない、検証不能な過去の出来事。受け容れているならば、それで良い。

私はそういう現象に気づいたことはない。霊感という言葉でいうならば、おそらくないのだろう。

霊という言葉を使うか、使わないか。それはどうでも良い。世間には 感じる 人と、自分の認識を他に及ぼす 人がいるだろうとは思う。私は後者。勁い力で他を圧倒するものに、感覚は訪れない。そういう役割だ。

上に書いた3つのほか、彼の気に病んでいた一つの現象がある、と聞いた。

南禅寺にて。異形の僧が瞑想しているのを見て、この人は極端に偉い人か、世界の枠組みから外れた狂人だろう と思った瞬間、目を開けて見据えられたのだという。

私の解釈。友人が瞑想をしている立場として、逆でもおそらく感じることはあっただろう。それは人 (の大部分、感じる側の人) が誰しももつ感覚だ。友人は 見抜かれた のではない。お互いに呼応し、受け取ることができる相手に発信してしまったのだ。

だからどうということはない。科学の言葉で説明をつけるには未解明だが、たしかに感覚はある。だが畏れることはない。

そんな話をして別れた。

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