歴史とタイミング
500以上 の発言を twitter に流していて、初の RT 波及が、この日記を呟いた記事だなんて、どうかしている。私は実務的な技術者であって、占い師でも、オカルトの考察家でもない。まして、そのての発言を twitter でしたのは たった2回目なのに。
というわけで、論理から解釈するタイミングと偶然の話を書く。
今日は貸出券を持っていかなかったので、引用はうろ覚えだ。また、井沢氏が初学者向けに書いたものだから、百も承知で平易に書いてくださったのをツッコムという野暮な真似だろうとは思う。
新教以前のキリスト教(カソリック) では、教皇が現人神のような扱いでした。その他にも階級がありました。
それはおかしいじゃないか、聖書によると人間はみな泥から作られた。平等なはずだ、ということを言い出したのがマルチン・ルターです。ルターは
自分たちの聖書の解釈を弾圧するなと抵抗 (プロテスト) しました。その頃、グーテンベルグが発明した印刷の技術が普及し始めました。
それまで聖書は一般の手には入らないものでした。ほとんどの人は教会から話を聞くしか無かったわけで、聖書の解釈を自由にするなど無理な話でした。都合よく印刷によって聖書が、階級が下の人々の手に入るようになったのです。
元本は
井沢元彦の世界宗教講座( 井沢元彦 1993 )なんだけれど…… 引用と言ってよいものかどうかわからないくらいうろ覚えです。興味を惹かれた方は、井沢氏の名文を参照してください。
さて、ルターはもともとカソリックの神父だったから、聖書を手に取り、自分の頭で読み解釈する環境があった。
だが、都合よく印刷技術の発達により聖書が普及した
のではないだろう。それまでに何人も教会に籍を置きながら、あるいは王侯貴族で同様のことを考えた人はいたけれど、ほかの人に説得力をもって広げるためには聖書の普及を待たなければならなかった。そのタイミングで考えつき、名を残したのがマルチン・ルターだと考えるのが自然だ。
世界を解釈するとき、本当に奇遇としか言えないタイミングもある。たまたま番が回ってきたようなタイミングもある。
タロットとタイミング
アマチュアだから、札を引いて解釈可能な並びを引く率が高い、という気がしてきた。
きづいてから10ヶ月、すべてをここに晒しているわけではないが、ほとんど記録しているので、瞭らかに解釈可能なカードの並びばかり得ていることは間違いない。---残念ながら、それが正鵠を得ていたかどうかは検証不能な内容ばかりだが--
なぜなら、素人は 引くべき時
と感じるまでカードを引かない自由があるからだ。(引かないという強い意志も必要だが)
カード78枚156通りの単語という、制約条件の中で現れる形で解釈できるような形に問いを整理できた時点が、自分でカードを引こうと思えるタイミングなのかもしれない。
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