2011-12-21

霊感とか神聖視するなよ ( Garbage in , garbage out )

月曜日、小規模の忘年会を主催して飲み食いした。

知人が霊感てなんだろう。これこれのトレーニングをしたら身に付くというけど本当かなと書いたのがきっかけ。


心当たりの何人かに声をかけ、気がつけば《これこれのトレーニング》の弊害や行き過ぎについて古今東西の体系では、どうすると弊害を防ぐといわれてるか、どうなると行き過ぎてオカルトバカになるか、なんて話で大変に盛り上がっていた。わたしには充実した楽しい四時間だった。


ところが、だ。契機になった知人に感想をきくと、こんなお返事が返ってきた。

どんな弊害があるか、どう避けるかはわかった。たしかに危険なのだね

でも、どうすれば霊感が得られるかはけっきょくわからなかったな

当日の返事では、弊害を避けるための体系のあの本、この本、どの道場なんてはなしが出ただろうという話もわたし他参加者一名から挙がったが。なにか違和感を覚えてなかなか寝付けなかった。


一夜明け、火曜日。人数をあつめ会を企画したときに意図した、わたしの答を思い出した。


霊感、直観、第六感を得るという目的に絞って言えば。トレーニングは「知識で詰まった頭を整理する技法」にすぎない。トレーニングに伴う知覚異常、いわゆる神秘体験は、トレーニングしてる各自の、子供の頃の素直な感じかたを思い出してるにすぎない。

あるひとが幻を眼前にみるならば、そのひとは子供のころに視覚でものごとを考えるのが自分にとって自然だと「思いだした」だけ。別のひとは音声をきく、まれには味覚すらあるなんて話も出たが、みな個々人の資質。当人たちに会えばそれは実感できていた、はず。



幻をみるひとが、音声で聴きたいと思わないし、音声に変換するようなトレーニングを求めることはない。そこに違和感を感じないならば。 五感ではなく素直に思考の形であたまにひらめくのも立派に霊感・直観のたぐいでなんの違いもない。


あるひとはAというトレーニングで日常でもまれに視覚にヒントを得るようになった。べつのひとは聴覚に。べつのひとは通常の思考に。それぞれの結果に差異はなく、人に話してオカルトだといわれるか・いわれないかの違いは些細なことにすぎない。


幻視・幻聴・夢のヒントだって、通常の思考と同じく間違えるんだよ。

人間なんだから。


ある人には言葉での思い付きよりも、幻視のヒントのほうが精度が高い体質かもしれない。でも話を聞くひとは違うかもしれない。それだけ。



そして肝心なのは、これら全部「頭を整理する技法に過ぎない」てこと。

コンピュータの世界では、「ガベージイン・ガベージアウト」という。


会社の会計処理を考えよう。トップががんばってコンピュータを導入し、さらに速く計算ができるようにマシンの性能をあげ、ソフトを次々に高性能なものに置き換えても。


各支店の報告する売り上げの数字、仕入れの数字に嘘があればデタラメの答しか返ってこないだろ? ある支店が仕入れ明細に妖精の羽の粉・1グロスと報告すれば、そのまま会計ソフトは出力するだろ? このソフトに営業戦略をたてる機能も組み込まれていたら「売り上げの良かった妖精の羽の粉を全支店で取り扱いなさい」と指示すらするだろ?


だから、まず自分が正しいと認められる、信じられる基礎知識を積み重ねること。

日常への知恵は、日常の基礎知識や観察の集合からしか産まれない。

2011-12-20

宗教を求める気持ちが本能であるならば ( if "It" is only one of insticts )

まだ穏便な

ご飯を食べないと死んじゃうし
 ご飯を食べたら気分が良いけれど
  ご飯を食べるために生きてると言う人は
  あまりいないよね。
  たとえ思っていてもさ。

体に良い食べものは美味しいけれど
 美味しいものが体に良いとは限らないよね。
  きちんと理性で監視しないと。
   美味しいと体に良いはイコールじゃない。

食欲も性欲も似たようなもので
 性欲を満たすために生きていると
  宣言する人はいないよね
  (たとえ思っていてもさ)

宗教や神秘体験も本能のひとつと考えた
 欲望が強いと誇るのも間違っているし
  そのために生きるなんて恥ずかしいこと、言えないし
   気持ち良さと自分に良いがイコールじゃないこともわかる。
    でも無視し続けては生きられないとも分かる

きちんとしたご飯を体に与えるのを忘れたら
空腹のあまり人は新聞紙すら食べるし
ジャンクに慣れるとジャンクしか食べなくなる。

今だと
原発さえなくなればすべてうまくいく とか
大陸の息がかかった民主党さえいなくなればすべてうまくいく なんて
自分たちに責任があるか考えたくないから外部にを押し付けて思考停止をするのが
飢えて手近の新聞紙を口に入れるようなもの。

ジャンクフードに当たる宗教が何かは、なにを挙げるのも怖いけれど。
気持ちが良すぎたり、刺激が強すぎたりして常習性があり
ほかの生活を忘れたり、ほかの考えを学ぶ気持ちを喪ったりしたら
ふつうに
ジャンクフードとみなせるよね。


なんでこんなこと考えたかというと

今日を逃したら年賀状が書けないけれど飲みにいきたいな

いやちょっと待て。

やりたいことと、やるべきことは、ときに違って当たり前

やりたいことを圧し殺し続けては生きていけないけれど。たまには、より長期の展望でやりたいことやろうよ

買い物のとき、そう思ってから一気に思いついた。

自宅の水回りに仕掛けた、パイプ詰まりを溶かす薬剤が効果を発揮するまで帰れない、年賀状を書けないから、喫茶店でまとめてみた。

そしてさらに考えは続く。

自嘲と自戒をこめて書けば

売春と占い師(・マジナイ師)は税金やハローワーク、生活保護が整備される以前の社会における最後の命綱。自然発生する社会保障だと
一昨日月曜日に感じていた。( 年明けて4月ころに、私の実名日記のほうで書いた )。

性欲の受け皿である売春者が
 客に愛を求めても
 求められても
 いけないように

宗教欲の受け皿である占い(マジナイ)師が
 客に信仰を求めても
 客が独占を求めても
  いけないよ

どちらも相手に合わせているだけの
賎業なんだから。

2011-12-11

祖霊崇拝 ( Ancestor worship )

中国から日本に渡ってきた最初の宗教は、先祖を祀るという単純なものだった。 そう読んだのは井沢元彦氏の書だった。

最近に読み終わり、近くまたメモを取りながら感想を書こうと目論んでいる現代霊性論に以下の記述があり成程と思った。


宗教は必要かどうかという問いを立てるよりは、むしろ宗教とどうかかわるか、どうつきあうか、そういうふうに考えたほうがいいんじゃないかな。 (釈)

宗教というのは、愛とか労働とか言語と同じレベルのものです。(略) 人間が必要だと思ったから宗教をつくり出したわけじゃなくて、宗教があったから人間ができた、宗教は人間と同じだけ古いんです。(内田)

言語もそうだし、貨幣も性愛もそうです。誰かが エロス的な欲望というものがあると便利だから、エロス的欲望を持つことにしよう と言いだして、みんながそれはいい考えだ と同意したから欲望が生まれたわけではないでしょう。人間というのは性化されたかたちでしか存在しないんですから、自己決定できない問題について、必要かどうか を論じても始まらないです。(内田)

現代霊生論 p.285

葬式は無宗教でとかねがね言っていた父を昨年に送り、遺骨を部屋に置き共に暮らすうちに飾り付けたくなり このような心の動きで祭壇やピラミッドができたのかと実感したればこその納得だ。


父の遺骨を住居から離して一年と少しが経った。

霊魂があると信じてはいないが、たまに遺骨と向かい合うと背筋が伸び、父が手入れしていたように住まいを整頓しなくてはという気持ちになる。


なるほど、古代の半ば獣だった人類から受け継いだDNAに、困ったときには親の暮らしかたや決断の方法を踏襲することで、同じくらいには長生きできる という生存戦略が刻まれ、淘汰の結果残ったのだな。

先祖から親に受け継いだ行動に知恵を仰ぐというのは、たしかに宗教だ。


これが原形か。

2011-11-27

科学的にいえば ( In other words of science )

幽霊や妖精をみる人々を何人も探し、会った。同じものを視たいと望んでいた時期だったので、その いる 場所はヒントをもらわずとも分かるようになった。なんだ、子供の頃に気づいていたが認識するのをやめた場所であり、存在じゃないかと思えた。

同じ存在の感覚は、空の雲にも感じる。もやというにも薄い夜の視界の曇りにも感じる。つまり、これは物理的にいうならば湿気と気圧の異常な偏りに過ぎない。

テレビを視なくなって久しいが、長らく大槻なるセンセイが、民俗学のことばでいう人魂はプラズマの異常な発生に過ぎない、ゼロではない確率で発生するのだから怖れるなと力説しているらしいことは知っている。これも類似の分析だろう。

物理的にいえば、人もは主に炭素と酸素、水素からなる固体に過ぎないというのと同じだ。


幽霊は本当にいるのかな。

いない というのは物理的に計測不能だということ。いる というのは対処可能だということ。どちらも矛盾しません。

そう答えたことがある。

物理的にいえば、人は主に炭素と酸素、水素からなる固体。だがそこに意思があることを誰も否定しない。否定したら自分の意思をも否定することになるから。

我思う、故に我あり。故に隣人もあり。 原初の哲学は、そんな単純な実感を言葉にすることから始まった。ならば湿気と圧力だろうがプラズマだろうが、そこに意思を感じコミュニケートが成り立てば いる ということ。単にそれだけの話だ。

コミュニケートというのはなにも言葉に依らないこと、犬猫を可愛がることができる人ならば知るだろう。邪魔だから相手の意思をかんがみず、ただ存在を滅することもコミュニケート。害を及ぼさないから放置して存在を愛でるというのもコミュニケートだ。

生命活動はいつも不思議だ。人間や動物は身の周りにありふれ、誰もが認識しているから そういうもの と捉えているだけで、意思をもつ仕組みは分からないままに認めている。だが科学的にいえば、意思がどこに存在するのかなど誰も解析したことも把握したこともない。脳内の電流とパソコンのチップを流れる電流の区別は、設計者を知っているかどうかの違いだけだが、パソコンに意思はないとみなされる。


ヒトは自然に手を入れ、食料と住居を作り出し、個体の数を増やしてきた。山の樹や野性の動物・昆虫を闇雲に殺せば、バランスを崩して自らの生活が脅かされることもしった。そこにある存在に敬意を払い、自然に発生し今あるバランスを崩しすぎないこと、共生することが長期的にみてヒトの生活に利することを、いまでは殆どの人が知っている。ならば幽霊や妖精、人魂とみなすことが可能な気圧や湿気、プラズマに敬意を払うのも安全側に振った当然の選択だろう。と私には思える。

そこに生命があり意思があると考えようが、考えまいが。生命や意思があると捉えて山を大事にしてきた古老の経験知は変わらず役に立つ。山を切り拓きダムを作り、護岸工事をして事足れりとして痛いしっぺ返しを食った例はいくらでも枚挙できる。

ならば霊能を謳うひとの唱える経験知であれ、過去の言い伝えをきちんと学んで語る言葉であるならば軽視する謂れは何ひとつない。うしろの理窟が同意できなくても、経験知は経験知だ。むしろうしろの理窟を実感なく言葉で盲信し、他に当てはめ無闇に怖れるほうが不遜で蒙昧な行いといえる。実感できずに言葉で考えるならば、計測可能なものを積み上げ言葉で考え尽くした科学に頼ればよい。

わからないものをはっきりと分からないと言えるのが科学を学ぶということ。

わからなければ自らの都合と、いわれる危険を秤にかけ、リスクを背負って決断するのが生きるということ。

敬意を払いつつ怖れなければ、生きることができる。

2011-11-12

瞑想力が強くなると集団誘導瞑想に向かない ( AuroaSoma Meditation 11.11.11. )

承前

瞑想といわれものは三つに分類される。イメージを動かす瞑想、イメージに心を留める瞑想、自分を忘れる瞑想だ。用語は忘れたしざっくりした説明だが、間違ってはいないはず。

中学生でヨガの内藤さんが著した本 を手に入れ、それを基に長らく独りで座っていたが。イメージに心を留める瞑想が得意で、イメージを動かす瞑想は苦手だった。

インドで真の瞑想と称される自分を忘れる瞑想は、できていたような気が、まぁしなくもないといった到達。誰にも険しい、得がたい業ということにしておいてほしい。


11.11.11.

'11.11.11. 一が6つ並んだら新規まき直しにふさわしいと感じた人々がいた。

ゼロに当たる新月でも、一に当たる翌日でもない。日本では未明が満月。だが半日経った夜を以ってまき直しを図ろうという気持ちは美しい。夜でもよかろうと気分を一新したい人があちこちで集会をしていたようだ。

占いからの友人だが心霊かぶれしていないひとが、無料の瞑想会があって行ってみるつもりだと同行者を募った。読んで気づけば三十年のあいだ、座禅もヨガも含めて集団で瞑想をしたことは今までにない。そんなちょっとした好奇心で手を挙げ、参加を決めた。

友人が半年ほど講習を受けたカラーセラピ、いや最近ではオーラソーマと名の変わった技法を教える学校での開催だ。


教室に訪れておどろいた。

オーラソーマがカラーセラピと名乗っていたころから有名な色水の瓶だけでなく、インド哲学のチャクラなどあれこれ神秘思想の解説が飾ってある。手当てをアメリカ風に解説して徒弟制度を採り入れたレイキのCD も販売し、講習プログラムも開催すると案内がある。

連れてきてくれた友人が心霊がかってはいないので半信半疑だったが、ここは立派にスピリチュアル産業のひとつとして営業される場であると、やっと理解した次第だ。


レイキを学んだひと、ある程度調べたひとは、レイキの創始者は日本人だという。だが、徒弟制度として確立させ称号に上納金を求めるようになれば、制度を作り解説の体系をつくったアメリカ人の産物と私はいいたい。体系を作ったのはアメリカ人、目指すところは臼井なにがしの境地という理解で良いと思う。


実践

教室の広さは十畳、もしかしたら十二畳。高級マンションの応接間としてはそう珍しくもない広さだ、本当は。だが家具のない分だけ広く感じる。十三人の参加者がそろい、半円に車座で座って、まったく窮屈だとは感じない。

オーラソーマ流の瞑想会が始まった。初体験と手を挙げた私のために、色水の匂いをからだにいかにまとわせ、いかにからだとイメージを動かすかの軽い説明を皮切りに。

誘導するオーラソーマの先生がとうとうとイメージを語る。リラックスに向けた言葉が紡がれる。音楽を流す。それぞれは、けっして悪くないと理解でき、感じる。

しかし私は耳鳴をおぼえた。ここまで強いものは久しぶりだ。

独りでなく、多人数で瞑想するとはどういうことか、違いを体験したいという思いが原因だったのか、そう今は考えている。


青という言葉に、ある人は秋の晴天を思い浮かべるだろう。ある人は別室に売られていたターコイズを見たばかりの印象が強いだろう。潮風の海を感じている人もいるだろう。

どうも無自覚に、こういったイメージの広がりを、人の気配の数だけ計算してしまうらしい。

最近の二年ほど、鬱から浮上する過程で、頭の働かせ方が前と違っていたのは理解していた。イメージを動かす瞑想がある程度得意になり、常日頃からイメージを動かして生活している自覚はあった。 (鬱の原因は あなたには人の気持ちが分かっていない と言われての数々の人間関係の破綻だから、ひとの気持ちを憶測するように習慣付けたのは当然といえる )

変化は自覚していたが、しかし これは予想外につらい。一人分でなく、数人分のイメージをそれぞれに動せば、そら人の能力を越えるわ。

さすがに13人分のイメージとは思わない。数える余裕はなかったが。そんなに多くない。だから、私の勝手な感情移入だろうと振り返って 理解はできる。振り返って理解ができることと、そのときに余裕がないことはまた別だ。


11日の関連で、先の3月11日の震災のことを講師が語る。あの酷い状態を思いだしましょうと誘導する。それだけで酷い状態、それぞれの人が感じた死者や荒れた光景を計算してしまう。思い出させて、癒しましょう と誘導が続く前に私が保たない。空想してしまった何人分もの痛みを受け取るだけで手一杯だ。

……多人数での誘導瞑想に、イメージ動かす瞑想が習い性になり制御きかないまま参加するものじゃないや。


終わりに

上記の感想を読めば、神経症とか統合失調とかの症状と読めると思う。

間違っていない。症状としてはそれだ。鬱の症状から脱するために、まだしも日常を過ごす邪魔が少ないだろうと、引換に選んだものだから仕方がない。

イメージを動かす瞑想のいきつくところはそれで間違いない。だからこそ、日常を過ごすのに不自由しないひとが好んでやるものではないと思う。

けっしてより生き易くなるわけではないのだから。



注釈

上記のレポートを書きながら思った。やはり私はスピじゃない。スピと言われると違和感と憤りを感じるのは間違っていないと。

占いもする。オカルトな体験談もまじめに考える。それはすべて、困ってるひとが頑張る手伝いにならないかという目標へむけた手段だ。

困ってないひとに癒して名前の精神の贅沢を約束したことはないから俺はスピじゃない。スピリチュアル産業の従事者・顧客と同じ名前で呼ばれるのは絶対にイヤだ。

幸せだとはけっして思わない。より悪い状態から抜け出すために必要なだけの体系を。困っていない人に娯楽として一部を提示するのは過ちだろう。


後書 -1-

今回のセッション、私は誘導瞑想というよりもグループセラピの一プログラムと理解した。オーラソーマの教室でも毎回このようなことをして、自分の体験や感情が蘇り泣く人もいるというからだ。

グループセッションはハタチのときに大学の心理相談所の主催するもので参加したことがある。指導者が悪辣だと要らぬものを高額で購入したり、指導者が未熟だとカルト宗教が自然発生したりする危険なものだとはそのあとに知った。今回の講師は未熟でも悪辣でもないとは思う。だが、それでも中毒者は発生するようだ。

アルコール中毒よりは AA の集会の中毒になるほうが良い。利害を考えれば誰の目にもあきらかだ。カソリックのミサの参加者にも、カルト教団をおちょくる趣味人の集まりにくる脱退者の中にも必ず中毒者はいる。悪いとはいわない。

悪いとはいわないが、顔を合わせて話せばすぐにわかる。個の根っこのところで、自分の判断を誰かに委ねてしまっている感じが拭えない。

逆にグループセラピの中でうまく自分を保っているのがプライドで、優越感に浸れるからそこにいるて雰囲気のひともいた。

どちらでもなく、純粋にそこにいることを楽しんだあとですっと日常に帰れる人もいる。教会の日曜のミサできちんとした人に会うことがあるのと同じだろう。

とはいえ教会より率は少ないので、私を誘ってくれた友人が、数少ない日常に戻れるひとだとみたのは友人として嬉しかったけれどね。ここを本人読んだら照れるだろうが。


後書 -2-

空はいつもきれいだ。青をベースの瞑想で、指導者がなにを言おうと。

2011-10-12

理系と文系 ( science , mind and faith )

今晩は満月。雲で適度に和らいだ光が宙天から降り注ぐ。

次の満月の日付が 11月11日。1並びだから新しいことを予感させるという説 を最近に読んだと、ふと思い出した。


満月を信奉するならば、満月の時刻を含む24時間から勝手に任意の時刻数字を取り出さないように、と理系の頭は思う。一日という区切りは人為的に区切られた境界で、住んでいる地域によって違う。


いっぽうで、数字に思い入れをして、自分や状況をよく変えるきっかけにしようと思えるのは悪くない。そんな些細なことから動き出すきっかけを掴める、人の心はむしろ素晴らしい。


本来の意味も感覚も違うが、キリスト教の 不条理なるがゆえにわれ信ず という言葉を思い出す。

不条理なるがゆえに、美しく尊い

2011-10-06

境界 (edge)

「妄想」を放し飼いにし、観察することができなければ、ヒトの一面は理解できない。ヒトと全人的に係わることはできない。

放し飼いと野放しは違う、柵がなくちゃね

2011-08-22

Solitude

Sword nine from pixy/Waite

孤独をあらわすカードはなんだろう、と考えたときに。Sword の 9 しか思い浮かばなかった。

数字をたどれば、(きっとウェイトたちは) 9 は 10 のうち 1 しか残っていない (と考えただろう) と、友人 T の言葉から連想が働いたせいもある。だが、残りの数札 39枚検討してもほかにないと思える。

孤独は 9 , 孤立は 5 かな。


Sword five from pixy/WaiteSword five from Lo Scarabeo

孤立は 5 といきなり言っても分かりにくいかと思う。

じつは近頃、ウェイトとクロウリ両方の象意をうまくまとめたLo Scarabeo Tarot を愛用していて、ここでは Sword の 5 はこんな感じ。


Sword five from Lo Scarabeo

同じデッキで、9 はこう。

ドキュメントの管理 ( simple shell script for document management by cvs )

しばらく前、友人 T と Quantum Tarot に付属のドキュメントを共同で和訳しないかと持ちかけられた。

二人とも SE が本業。ならば共同作業のためには履歴の残るシステムを作りたい。環境オタク の血が騒いで、cvs で管理するための、最初の雛形をつくるためのスクリプトをざっくり作ってしまった。

ただし、このスクリプトではふつうのタロットのためのテキストファイルを作るコマンドにしてある。私も自分用に、自分のふつうのタロットへの随想をまとめてみたかったのです。

#!/bin/sh -eufC
#
#   $Id: makeTarotDocSkelton,v 1.2 2011/08/22 04:58:31 yaemon Exp $
#

DIR="."

if test $# -eq 1 ; then
	DIR=$1

	test -d "$DIR" || mkdir -p "$DIR" || exit 255
fi

INIT_STRING=`echo '?Date:?' | gsed -e 's/?/$/g;s/^/\t\t\t/;'`

for suit in 'Cup' 'Pentacle' 'Wand' 'Sword' ; do
	mkdir "$DIR"/$suit
	for num in 'Ace' 2 3 4 5 6 7 8 9 10 'King' 'Queen' 'KNight' 'Jack' ; do
		echo "	[" $num " of " $suit "]" $INIT_STRING >  "$DIR"/"$suit"/"$suit"_"$num"".txt"
	done
done


mkdir "$DIR"/Trump
for Card in \
	00_Fool \
	01_Magician \
	02_HightPriestess \
	03_Empress \
	04_Empror \
	05_Hierophant \
	06_Lovers \
	07_Chariot \
	08_Justice \
	09_Hermit \
	10_WheelOfFortune \
	11_Streight \
	12_HangedMan \
	13_Deth \
	14_Temperance \
	15_Devil \
	16_Tower \
	17_Star \
	18_Moon \
	19_Sun \
	20_Judgement \
	21_World \
	; do
	Title=`echo $Card | sed -e 's/.._//;'`
	echo "	[" $Title "]" $INIT_STRING >  "$DIR"/Trump/$Card".txt"
done

2011-08-15

ふたつの塔 ( towers )

先月につづいて二回目、晴れた夜に満月に向かって歩くと両脇に二つの塔がある気がする。

どんだけ、タロット中毒やねん ……てはなし



先月にふたつの塔に向かって進んだ気になったあと、友人の日記にこんなコメントを寄せた。

[月] のカード。今まで気がついていなかった現実への推測に気づくカードだと思っています。良くも悪くも。

ところがたいがいの人は、悪い推測はなかなか思いつかない。良い推測はわりにすぐに思いつく。悪い推測は、よほど状況証拠が積み重なって、やっと気づかされる。

結果として、ふつうに顕れるときには、「現実である可能性が高い、悪い推測」であることは確かに多い。でも筋金入りのペシミストにとっては、良い推測であることのほうが多い。

日本語で「不安」と書くと「現実ではあるがまだ確かめていない、悪い推測」の意味と、「まだ起こっていないで出来事への悪い結果予測」の二つの意味があって。分けて表現しようと思うと、なかなか面倒ですね

楽観的な推測と、悲観的な推測。ふたつの極端をきちんと把握した塔を建てることで、間に進むべき道が見えますね

なかなか気づかなかったり、やっとたどり着いた仮説だからといって事実とは限りません。

推測が事実かどうかなんて、道/未知を歩いてみないとわからない


今日は、二つの外れてはいけない左右の方角に、楽観と悲観ではなく、傲慢と虚飾てことばを思い出した。自らも信じ込んだ過信と、自らが無理していると分かっている虚飾。

Google に翻訳させると、Arrogance and vainglory て訳がでてきた。未検証。

2011-07-13

はぐれもののためのイエス (christian for minor)

「世間のひとの殆どは医学に任せておきなよ。残りの救われないはぐれもののためのノウハウ、なぜ体系だてる必要があるのさ。君は個々人に対応できるのだろう?はぐれた人はみな違うのだろ?」

先日、こんな会話をした気がする。
オリジナルな自分の意見のつもりだった。

とんどの人は、ほとんどの局面で多数派。ごく一部の局面でだけ、医学や法律で救われぬことがあるだろう。
では、その多数、少数の割合はと考えていたとき。
もっとも子供のときに日曜学校できいて、意味のわからなかった文が、こう理解できた。

「99匹の世間についていける羊は世間に任せておきなさい。迷った一匹のために嵐のなかを探すのだ」


……そっか、キリスト教はあまりに顕教(社会を成り立たせるための宗教)の印象がつよくて忘れていたな。

百人のうち99人を相手にしたり、これは万人のための教えだというふりをしたら。
さぞや儲かっただろうし、磔刑にも遭わなかったかもしれないね
……と思ったらこんな一節がまた思い浮かぶ。
「世界を一望してごらん、君はこの王になれるよ」
「悪魔よ去れ。世間の栄華は要らない」

2011-06-24

ユング心理学のアヤシサ ( Jung is scientist , but most of jungian murky )

日本いがいの国において、ユング心理学は眉唾・きわもの扱いされている。
日本だけ特殊なのは、河合隼雄氏が世知にも長けたカウンセラだったからとしか言いようがない。

人間としては、たしかにユングは、極端にいろいろの直観が当たる人であった。
初対面の人間について第一印象だけで、どんな仕事で成功する、失敗するなど口走ってしまい、高確率にピタリと当たるとか。似非オカルト(*) な人は予言者とか霊媒体質とかいう。

でもね。ユングは自分の直観を一生疑い続けたんだ。たしかに、あまりにも自分にとっては自然な直観をうっかり口走ったこともあるけれど。

ユングにとって、直観も重い夢も幻視も、疑いつづけ、理屈でいつか説明がつくと信じながら後世のために記録を残しつづけ、検証し続ける対象だった。けっして盲信するものではなかったのだよね。ただ、現在説明がつかないからといって、無碍(むげ) に否定はしなかっただけ。

あたまからの否定はしなかったから、説明 (もっともらしい仮説) がついている科学の一部分だけを宗教と盲信するひとからはアヤシがられ、説明がつかない現象や感覚に囚われているひとからは「偏見をもたずに接してくれる」とありがたがられた。

だがしかし、彼は「そういう現象もあるように思う」と言っているだけ。現象に検証できない説明をつけようとするひとは、もはやユングのミームを継いでいない贋者。

同様に「存外に多くのひとが感じている」というのが事実であるとき、軽視したり否定したりするのは学究の徒ではないわけだが

(*) 似非オカルト = 本来の意味では、オカルトという言葉も「直観や体感を重視しながらも、疑いつづけ、否定しつづける」だと私は思っている

2011-06-22

6 suits for meditional etude

introduce

Mysticism is only a language , tool for access another 's deep mind. There 's no reason for original higher thinking . It's only amusement.

神秘主義なんて、他人と心を通わせ、本人すら自覚しない部分に直接に話しかけるための言語/道具に過ぎない。

私が頭の整理のために、こう考えると論理的に綺麗だなどという内容を考えるのは単なる一人遊びだ。娯楽であり、ジョークだと思ってもらえたら良い。

main

胸にぶら下げた十字架のペンダントを見ながら、大アルカナは心の深層・原型であり日常ふだんに使うものでもない。その封印のために四元/小アルカナの四つのスーツがあるといつもの考えを弄んでいたとき。体感として胸中に擬せられる原型を封印するのに封印は四つの方向のみで良いのかという考えが浮かんだ。

上下左右のほかに前後、六つのスートを仮定するのが自然だろう。

我が友 TOMYZ に ピアズ・アンソニーの100枚タロット の話をしたとき、彼は 100枚という数字を敷衍して二つのスートカード 20枚を加えようと夢想した。彼はエーテル体・アストラル体といった従来の神秘主義の枠組みを愛しているからであり、その着想を聞いていたことは6つスートがあっても良いという自由を私に与えてくれたが、しかし全く無関係な枠組みを私は考えてみたいと思う。

  • ball - chain (前進と保守。前方と背後。従来でいうならば ball は wand でありfire )
  • coin - air (物質・日常・関係-しがらみ- と孤独、あるいは放浪、空想。丹田root - 頭上crown)
  • cup - sword ( accept - judge , emotion - logic , left - right )

TOMYZ 君と違い、100枚にする気もないし、それぞれのスートにコートカードがあって然るべきだと思う。

chain と coin の働きが従来のスート coin に混在し、fire を前に進むべきものと捉えることによって小アルカナ 40枚に従来置かれてきた意味合いが整理できることは楽しい。そして体感としてイメージするのにきわめて有効に働く。

このやり方で体感するのに唯一困ることは、あまりにのめりこむと右半身と左半身がばらばらに乖離しそうになることだ。オカルトは空想野遊びであって、度を越すと日常に害があるということ。劇的な副作用に注意。

cant read cards now

承前

仏教の説話で次のような話がある。

子供が死んで悲しんでいる母親が、釈迦にすがった。

釈迦は死んだ人が一人も出たことのない家を探して、そこの家から穀物を分けてもらい育てて食べたら、きっと子供も生き返るよと答えた。

母親は一軒々々の家を回り、死んだ人の出たことのない家を探した。

どの家にもかつて死んだ人があり、死んだ人の思い出や、死者を出したときの苦しみを聞く機会となった。


母親は、ふと楽になって子供の葬式を出すことができた。

この5年

私もまた。
元妻に追い出されて独り暮らしをするようになって、一年後に自分の荷物のなかにタロットカードがあることに気づき、ふと筋の通るカードばかり引けるようになっていることを発見した。

麻雀にヒキと呼ばれるものがあるように、カードにもヒキがあり、今はヒキが強い時期なのではないかという解釈と、自分の読みの幅が広がってどんなヒキでも読めるようになった (ただし現実に即しているかどうかは別問題) という解釈ふたつのどちらだろうと実験を重ねた。

それから二年後、一度だけ。二週間だけ。カードが読めない時期があった。どんなカードを引いても、良く解釈することしかできない、自分のひとつの人間関係にしか当てはめることができない、という時期が。

当時は認識していなかったが、恋をしていたのだと今は言える。

自覚していなかった恋に破れてから、カードの付き合いからの人間関係を深めていった。

だれとであれ、同じ失敗をしたくなかったから人付き合いがうまくいくようにという意識だったが。

一度も仲違いをしたことのないカップルを探していたのかもしれない。


そんなカップルはなかった、のかな。

この5日

土曜日からかれこれ四日間。またカードが読めない時期が続いている。

前回の、良く解釈することしかできない状態でなく、現実に即していると思うにはあまりに無理筋なカードばかりが出る。

カードが目先の航路を示すなら、きっと航路ではなく行き先を検討する時期なのかとも思える。

不条理だけど、ヒキはまた復活すると思う。

筋が通るカードばかりと思えるようになった最初これは今だけのことだろう。また筋が通らないと思えるカードの並びを引くようになったら三年カード引くのをやめようと思っていた。

今は、また今の課題、自分の方針が固まれば、きっと二週間程度でヒキは復活するだろうとぼんやり思っている。

べつにヒキが復活しなくても困らないような生き方・方針になるのかもしれないけれど。

2011-06-14

占いと主観 ( reality for two )

極端なはなしから始める

鼻の穴に筆を突っ込んで馬・鹿とそれぞれ十回書け(© 藤代健) という結果が自分を占って出たとして従うのか。他人を占って出たとして、言えるのか。


従わない、言えない。

どんなにカードを振りかざし、筮竹を振ろうと、自分独りでは言わないアドバイスを言うべきではない、というのが私の持論。

いや、筮竹振れませんよ。偉そうな小道具の例です


学校に行く気力が湧かなくて悩んでいる子供がいたとする。

本人の悩みを聞いて札を引いて学校に行きなさいと読めたとして言えるか。少なくとも私は言わない。

どんな客観的に正しいアドバイスでも、それができれば苦労はしないて結論を押し付たのでは意味がない。


自分の常識から外れた結論は読めないように、相談相手の常識から外れた結論だって言っても意味がない。

そんな結論しか読み取れないときはごめん、あなたの悩みにまだ同調できていないから結論が出ないというしかない。


だから、占いは当たるところまでは最低限の当たり前。実際は当てているのではなく、相談者にとっての真実がなにかを確認するところから始まるのだから。

相手と自分の共通認識を紡ぐところから会話が始まるのは、どんな話題でも、どんなツールを使おうと同じというだけの話。


……と当然のことを殊更に書くのは、たんに私が共通認識を紡ぐのが苦手、よく自分の認識だけが暴走するからなのだろうとも思う

天足通 ( Abhijna )

仏教のほうでは、悟りを開くと六つの超能力を得るという。


修行して悟りとやらをひらくまでもなく、他心通といえば人の顔色、雰囲気で相手がなにを考えているかだいたい見当がつくこと。

天眼通といえば、ちょっとした雰囲気の流れに敏感に反応して、目の届かない場所でなにが起きているかありありと心に浮かんでしまうこと。

天耳通といえば、聞こえるはずのない細かな音が聞こえること。


どれも精神が過敏になってしまうと通常におきること。

うっかり過敏になって日常生活ができなくなってしまった人を、日常の責務から隔離して回復を図る ( = 出家 ) ための施設が昔の寺なのだから、なにひとつ不思議はない。

天耳通はちょっと注釈が必要ですかね。

神経が過敏になると、横を通るタイヤのきしむ音、道行くひとの足音が、だいたい聞き分けられてしまいます。

ただし、目でも見えている場合に限る ……私の体験の範囲では


さて、天足通。

ふつうの人の想像を超えたスピードで一か所からよそにたどり着く能力。


大したことはない。

修行の過程としてであれ、うっかり浮世離れした生活をしたのであれ、慢性的な栄養失調や寝不足の状態が続くと、神経が過敏になって速足になる。

ついでに金もなかったり (昔だと乗り物がそもそもなかったり) すると、一晩歩き続けて 50km とか、それほど珍しいことでもない。

ま、20km 以上も先まで歩こうと思いつめること自体が、ふつうの精神状態じゃありえませんやね :=)


そこからさらに回復し (シッダルタは苦行をやめて栄養と睡眠を回復させたことは周知の事実) 精神状態がだいたい安定すると。

身長が伸びたわけでもないのに、いままで通ってきた、よく知った道のりが妙に短く感じられるようになったりする。

武道のほうでは、相手の隙をついて近づけるようになることを「縮地 (しゅくち)」と呼ぶけれど。

武道でも修行の過程で過労に陥ったあとで回復するのはよくあることだったろうから、縮地という感覚に陥った、だろうと思う。

いや、単に私が自宅の近くも、学生時代の肉体全盛期に歩いた京都も、やたらと目標までの距離が短く感じられて拍子抜けしているだけなんですけどね


……てなことを考えながら夜の散歩を終了しました。

30年前の記憶をたどりながら六つの超能力のことを書きましたが。いまパソコンの前で Wikipedia などみると、天足通ではなく神足通と書いてあったりします。

天足通と書いてあるウェブサイトもあるから、まぁ異説には事欠かないのでしょう。

( 坊主が「ふつうの人にはありえない。仏陀は偉いひと」と主張したくて、殊更に超能力としてはやしたてるからいけない。と、思います)

4時間後に追記

上記だけだと、神経過敏万歳な誇大妄想と取られても仕方がありませんね。

いままで何度もこのブログに書いているはなし、くりかえしになりますが、追記しておきます。

神経過敏である状態、座禅のほうで魔境というのでなかったかな。つまり、なんでもありありと確信をもててしまう。この状態にあるときに感じること、予感することの中には楽天的すぎる妄想も、悲観的すぎる妄想も、すべて含まれています。

修行とか占い、けっして日常・一般の生活が送れている人のためじゃないというのが私の持論。うっかりたくさんの未来や目の届かない場所での現実を演算してしまう人が、言ってもよいこと、言わないで自明に結果が分かるまで口をつぐみ・個人的な備えはしつつも検証を待つことを分別するためのものと思ってます。

王子シッダルタが仏陀と呼ばれるようになるときに、なにを悟ったのかなんて検証不能。僕らがせいぜいたどり着ける、身近な悟りって、こんなものじゃないでしょうか。

どんな能力も、100% の確度で実現したら人間気が狂います。それは人の身に過ぎた能力。

どんな確信も、どんな実績も、次の一回は間違うかもしれないと思い検証を続けることが、正気を保ち、日常に回帰するみちだと。

2011-06-06

整体マッサージを受けた ( chiropractic)

2,700円40分のクイック・マッサージを受けました。 生まれてはじめての、被マッサージです。

去年の春に「視える」人、他人の両肩と頭上と三箇所に (現実の視覚とは違う) 色が見えると言っていた人から「左肩から先がおかしいだろう、私と手をつないだら楽になるよ」といわれたころに凝りを自覚して。

その人と喧嘩わかれしてからより酷くなって、ヨガや腕立て伏せで自分の力で治そうと思っていたのだけれど、偶々日曜日にマッサージを受ける機会がありました。

私が京都に居てた二十代のころは、マッサージ師といえば気学をふりかざす、オカルトがかった人が多かった。 (いきつけの酒場で、何人かの卵にあったことがあります)

いまは、物理・生理の側面として対処してくれる人がいるのだなとうれしかったってのが店を出て一番の感想でした。

ま、精神が「原因である」ことは多かろうから、 気学、オカルトな原因をまったく排除するのも決して良いとは思いませんが。

「霊的にまとわりつかれているのと、きっとあの人に怨まれまとわりつかれていると確信しているのとの区別はつかない、つける必要はない」てのが持論なので

精神が問題であれ、症状としての肉体のあれこれを治さないと、立ち向かう元気も出ることはありえないから、なにが原因にしても対症は大事。
うつ病に薬が「対症として有効」なのと同じです。

おととしから去年、ちょうど「手をつないだ人」と知り合う直前まで、私は薬なしで欝と対抗するために河合隼雄の本を読みふけっていました。

めどがついたころに「手をつないだ人」と知り合い、話を聞き「「視えるのはつらいのだな、なんとか楽になる視点を提示できないか」と、カウンセリングや、河合著作と同時期に復帰したタロットの視点からあれこれ検討して

母親ゆずりの霊媒体質なユングの自伝も読み、ずっと考えていました。

「その人に怨まれている」て確信だけでなく
「私も、喧嘩で突き放されたことで怒りつづけている。怒っていることを自覚できて、自分の怒りを宥せてこそ、喧嘩の相手の怒りも認めることができる」
と思えたのが土曜日の朝。

私は自分が関与している自覚はなかったけれど、 離婚の前の一年強、元妻が「てもみん」に通っていたのは、ロジックと過去の約束をつきつけるだけの私に元妻が追い詰められていたのでしょうね、なんて逆の立場からもきづいたりします

2011-04-23

止揚 (aufheben )

自己の矛盾を心得、清濁を併せ呑むことをアウフヘーベンという言葉で表現していた時代があった気がする。私が生まれたころ、学生運動の頃。

自己の矛盾を認めるには、ある程度の羞じらいがないといけない。恥もなく矛盾を示せば居直りとなる。

2011-03-14

今回の地震は半月に

「満月と新月の日に地震も起こりやすい」のではなく
「満月と新月、地震が起きると高波が起きやすく、被害が大きくなりやすい」
「大きな被害は人々の記憶にも残りやすいだろう」

と考えるのが妥当か。

今回の規模で津波が満潮に当たっていたら被害はさらに大きかったと聞く。
ましてや大潮の満月や新月時ならば、想像を絶する。

2011-01-13

ゆうべはいくつもの夢をみた (Dream 2011-01-13)

起きたときに、五~六のシーンが思い出されるような夢は今年はじめて。

セクハラを受けたと語る若い女性と歩いていて、道路の向かいに渡ろうとしたところで目が醒めた。

向かいにはファミレス。ファミレスから出た車は左に走り、右からは多くの学生がくるだけで、こちら方向に曲がっている。

それゆえに私と女性のいる場所からファミレスまでは、交通の空白ができていて問題なく通れる道。渡ろうとして、先を譲ったが彼女は動けない。

この交通の流れが見えていなければ、私が先に渡ってみせないと、渡れないかと。内省的なことがらを考えた瞬間に目が醒めるのも私らしい。

もうみた夢の話をここに揚げないと書いてから一年弱。久しぶりに私の名前に結びついたところに、リアルタイムの夢の話を書いた。

2011-01-06

とある「初詣」 (Japanese religion 2011 mine )

承前

走り書きした前記事 のまわりの話。

友人 T 、T の知り合い 8人と「新宿七福神巡り」と名のついた初詣に参加したときの記録。

初対面

T と直接に会うのはこれが三回目。

彼が今回呼びかけた残り八人、いわゆる日本のスピリチュアル文化 にどっぷりとはまった人ばかりなのは最初からわかっていた。だが、会うのははじめて。

私を除いたほぼ全員が、互いに顔なじみなのは、そこまでの経緯で分かっていた。

集合場所に着くなり、最近 体調が悪く寝込みがちなT にいきなり言った人がいる。

いや、それで毒を排出しているのだから。悪いもの全部ざばーっと外に流して、世界が良くなる日に向かって備えましょう

いや、あなた。

毒は自ら消化(昇華)するもの、どうしても消化しきれなかったものを外に出すのは必要だけれど、周りに害のない形になるよう努力して。擬音にするなら「ころころ、ことん」と出すものでしょ。

ざばーっと、と。胸から下に向けてブルボン王朝の女性のスカートのように拡げながら手を動かした、その姿勢で周りに害毒を垂れ流しにしてどうするのよ。あなたのいう「世界が良くなる日」て、周りに害をまき散らして、自分たちだけが助かる日なのですかと。

毒を自ら消化したくて苦労している T の姿勢を、てっぺんから否定するようなことをおっしゃるのだね。

……のっけから、いやな気持ちになってしまった。

礼儀

午前は冷え込んだ。指がかじかむような寒さだ。

だからといって、神様の存在を信じている、信仰深いと称する人々のなかに、鳥居をくぐる前にコートも脱がないって人がいる。

コートは玄関を入る (=鳥居をくぐる) 前に脱ぐもの。百歩譲って、玄関先で。


二礼二拍一礼、信者として一人で「願い事」に訪れたのならばそうするべきだろう。

お辞儀は九十度 ? それが正式 ? バカ言っちゃいけない。第二次世界大戦の前の神道至高主義、近所のおばさんより教師が偉く、教師より御尊影(天皇陛下の写真)や神社が偉いって子供に押し付けたくて、差別化のために言い広められた妄言だ。

心からの敬意が現れて最敬礼になるのならよし、その「形」を真似てなにが敬意なのだ。


私はこの日、一度も「二礼二拍一礼」はしなかった。

キリスト教徒が神社に訪れ、礼を失さず敬意を表するように、神様にご挨拶。

故あって人と親しむため、七福神巡りという遊びで訪れました。お邪魔いたします


のちほど、人としてのマナーはどうなの、君は信仰でなく歴史の探求にきたのか とあてこすった非難を書いていた男がいた。コートも脱がなかったうちの一人に。

厄落としの儀式

神楽坂の毘沙門天で厄落としをしていた。

振るだけでカチカチと鳴る木製の器具を、厄落としを受ける方に向かって、上下左右・上右左下とリズムをもって打ち鳴らしている。

そうか。二年前、前厄のときから精神面で追い詰められると、私が上下左右に指パッチンして気分を収めるなんて妙な習慣ができていたのは、これが源流か。

そこまで四十年生きてきたし、神楽坂の近くの学校に通っていたから。どこかで目にする機会があり、頭に刷り込まれていたのだろう。

前世とか霊性によって既存の宗教に採り入れられたのと同じものを編み出した、と解釈する人もいるだろう。

なに、ふつうに生きてきて目にしたことがあったから、私の心の形が、そんな儀式を生み出した人々と多少似通っているから。それだけで十分。私はね。

どちらに解釈しても、意味は通るし、起こった出来事・ついた習慣の価値は毛頭変わらない。


そんなことをぼんやりと思っていたら、いつのまにか同行者をさんざ待たせてしまった。

現在の人に親しみにきたはずなのに、「神様・昔の人の心」に思いを馳せて、自分ひとりの世界に入ってしまったようだ。

だから、神様 (という文化) と対話しにきたつもりはなかったろうよ、自分。

災厄

食事時。一人がはしゃいでイエスとマリアは夫婦だったんだよねと俗説を得意気に語る。

私はキリスト教徒ではない。神様がなんと言おうと、自分がやるべきと決めたことはやるだろうし、その気持ちのままで入信はできないと、受洗を何度も考えたけれどとりやめてきた人間だ。

なのに、やたらに腹が立つ。なぜそんなに腹が立ったのか、自分でもわからなかった。そこまで私はキリスト教に囚われているのかとすら疑った。

たとえば、イエスとユダは未来からの能力者だったとするノリ・メ・タンゲレ なぞは、好きな漫画作品のひとつだ。ネタバレを避けるため詳しくはいえないが、石川賢・版の魔界転生 など、偏愛していると言ってよい。

敬意を傍に置き、不謹慎な仮説を立て検討するのは好き。そこに至るひとつの形として、不謹慎なジョークも大好きだ。

だが、一つの既存の信仰の代わりに、べつの借り物の説を無検討に持ち出して真実としてまき散らすのは少し違う。

やっぱりそうだったんだ、納得したと誇る顔に、処女懐胎なんて奇跡信じないわよ。汚れた私だってマリアさまと崇められるひとと同じものになれるのだわと貶める陶酔と、性を肯定する悦びだけを感じた、とするのは私のあとづけの理屈かもしれない。

キリスト神学の骨頂は「不条理なるが故にわれ信ず」

不思議な伝説を正面から乗り越えることをせず、借り物の、伝説が虚偽だというだけの、俗な解釈に逃げて、何の意味があろう。

食事の席でしばらく不快感を反芻し、無分別な怒りにならないように検討し、検討したつもりで。出てきた言葉はこうだ。

素朴な疑問。

私がキリスト教という文化を学ぶのは、人の心のありように自分の心の動きを知り、キリスト教文化からできた様々の芸術作品をより深く感じるためです。

2千年ほど前の事実がどうだったか、キリストがどのマリアと結婚していたかどうかなんて意味のない話。私にはね。

あなたがその説を信じることで、あなたにどんなメリットがあるのですか

イエスの伝説には、聖母のほかにふたりのマリアが登場する。俗説は、この三人をひとつとするものであり。それ自体は神話へのアプローチ、原型の一致として否定できない。

場がしらけた。

ある人がいう。いや、かくされた真実を知ることで、温故知新。いまの我々も救われるでしょう

でたよ、自分たちが不幸なのは、xx のせいだ。外部の xx が取り除かれたら、幸せになれる

その論法で、ナチスは 少数派、ユダヤ人 を敵にすることで 残りの多数派 の票を得て政権を取り、狂信に走った。平たくいえば、カルトへの道だ。

反論なら二つほど頭を去来した。

  • 隠されているからといって、自分がやっとたどり着いたからといって、それが真実とは限らない。定説とどちらが正しいのか、せいぜい同等。そのあとの検討が重要
  • 外部の文書がないと、真実がわからないのか。あなたにとっての真実は、あなたが伝説や儀式を生み出した昔の人の心に同調したときに、勝手に、文書の必要なくわかるものだ。私が先ほど毘沙門天の厄落としに感じたように

場を荒げるのがいやで、口には出さなかった。

それで良かったのだろう。そんな借り物の説をやすやす真実と信じ込む相手をうっかり論破して、味方=信者になられたらもっとタチが悪い。敵と認識されても厄介。

とはいえ、そんな決着も見通せず、素朴な疑問を口にしたのはうかつであり、大人気のない話であった。

2011-01-03

ムー族ともオカルトハンターとも喧嘩

ゴシップを喜んで話すのを聞くと、水を差してしまうらしい。


対象がキリストやマリアでも、マスコミ向け超能力者でも。
仮説検証として貶めるのは平静に聞ける (と思う)。
本人が真摯に「あれは偽物だ」と叫ぶなら、こちらの価値基準を脇に措いて、聞かずにいられない。
だが小躍りして「あれは偽物なんだよ。知ってた? 面白いでしょう」と気取った顔を見ると。


二回続けてやってしまった。
"So What?"
その人を貶めてあなたの何が救われるの ?
あなたに何のメリットがあるの ?

ひとつの仮説の代わりに別の仮説を持ち出してどうするんだよ。
これが真実だ、あれは過ちと叫び他者を批難するならば。
自分がふたつの仮説から真実を選ぶ理由が切実であることを示してくれ


平たくいえば
「〜だったら面白い」を「じつは〜なんだ」と置き換えて話すな

……という価値観があるのに気づいた
気づいたら、穏和に受け流せるかね


上記、電話投稿の三日後。この感想の周辺の話を詳しく書いた