確率のセンス
妙な札の並びをみるたびに、私は確率の計算をする。
一度の出来事に確率の意味はない。それでも計算するのは、一般化した性質を抜き出そうとするときに、日常の感覚とどれ位近いかを検証の材料にするため。
今はもう公開できていない私の日記、去年の5月1日にこんな記載がある。
[essay] 夢を見た
なぜか、電灯を点けっぱなしにして、布団を頭からかぶって暗くして眠っていた。
妙な夢を見た
自分の作った人工無能との会話がかみあってしまって、
神はさいころを振った結果で全能を示されると舞い上がってしまう男の伝説だ。うまく肉づけすれば読める話になりそう。
ひとことでまとめれば、数学のセンスがあっても確率のセンスがない。
人為ですら起こしうるできごとが、偶然に起きないはずがない
珍しい並びを得たとする。ケルト十字のつもりで10枚引いて、トランプが0番愚者から9番隠者まで順序よく並んでも良い。特定のスート、金貨なら金貨が同様に並んでも良い。もっと「ありそうな」できごとでも、人は往々に驚く。
確率を計算して かれこれ500回は引いているのだから、1回くらいは起きるさ
と言うほうがセンスがない。その世界観は、初心者に引かせていきなり稀少な並びをみたときに崩壊する。どんな稀少な確率の出来事も、起きる時には起きるのだ。
ただ受け入れる。矢が自然に弓を離れるように。そういう時機がある。
すべてリバース
私が日本のタロット本を読み漁っていたころ、30〜25年前に記憶がないが、ちかごろは すべて逆位置で札が出たら、カードに嫌われているのだから
という説があるそうだ。今日は占うべきではない
とすべてご破算にして占うのを翌日に回せ
たかだか 1024 分の一の確率に、畏れを感じるようでは札の並びを受け入れる時機が心にきていないということだからご破算にしてしまえ、ということなのだと思う。
ケルト十字で10枚引く時、 毎回に 156 × 154 × 152 × 150 × 148 × 146 × 140 × 138
で 4,675,765,217,094,107,136,000 通りの事象からひとつを選んでいる。
言い換えると、 0.000000000000000000000213868736 の確率から一つを選んでいるのだ。
すべてが特別。とくに意味はない。畏れるならば毎回畏れるべき。
7枚ずつ引く
7枚ずつ引くのを伝統とすることがある。
今まで、飛ばした6枚には、表に顕れなかった底の流れが表示されるのかもしれないと解釈しながら、深く考えなかった。
稀少な並びを引き当ててしまったときに、いくらかでも自分が納得できるようにという自衛、予防策ではないだろうか。今回考えていて、ふとそう思った。
ま、実際は札を人為で繰って他人にアドバイスするときにイカサマがしやすいからだろう、とも思うが。
天和を狙う
20年ほど前、麻雀に熱中していたときに。今年の目標、俺は四暗刻を3回和了る。
じゃあ、俺は九蓮宝塔だ
という遣り取りになって じゃあ、俺は天和/地和を和了ろう
という言葉が口から出た。
どうやって狙うんだよ
というツッコミがもちろん入ったが、思い返すと四暗刻を狙うのも天和を狙うのも変わらない。いくら狙っても、そこにマッチした配牌と自摸がこないと和了れないのだ。なにも変わらない。
ありえないできごと、信じられないできごと
ありえないことは起きない、信じがたいことは、しばしば起きる
あるとき、ふと思いついた科白だ。
もちろん、私自身が ありえない
と叫ぼうとして、気づいて落ち着くために言った言葉。起きたことは起きたこと。ありえないのではない、信じがたいのだ。
そしてなぜ信じがたいのかといえば、幼いころに 起これば良いな
と期待して、叶わなかったときに こんなことは滅多に起きない。起きるはずがない
と自分に言い聞かせ、だんだんにそれを世界観にしてきたからではないだろうか。
人為ですら起こしうるできごとが、偶然に起きないはずがない。もちろん毎回には起きないが、ときに起きる。
1 件のコメント:
twitter で 500 以上の発言をしているうちの、たった2つの占いネタ。
その2番目の、この記事のことを告知したものが初の被 RT ( ReTwite ) 波及でした。記念に URL 書き込み
http://twitter.com/alx_hrd/statuses/11009830079
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