2010-03-31

占星の時代 (Astrology Age)

begin

ユダヤに伝わる話に、こんなものがあるという。

王とラビは友人だった。が、ユダヤ人を公式に擁護できない王は、ユダヤの民の指導者であるラビと大まっぴらに話すことができなかった。

あるとき、王は手紙を託した使者をラビに送った。相談がある。王位についている間にやりたいことが二つ。一つは貿易の自由化。もうひとつはかわいい息子に王位を継がせること。だが、政治の力学から、王である私ですら為しうる大きな決断・政策は、あと一つが限界だと思える。どちらを優先すべきだと思う ?

ラビから王に手紙をしたためるワケにはいかない。証拠が政敵の手に渡らないとも限らない。使者は手ぶらで帰り、伝言も託されなかった。

王は問うた。ラビは私の手紙を読んだあと、何をしたのか、と。

あの異教徒は読み終わると返事もせずに家に入り、出てきたときには自分の子供を連れていました。自分は口もきかず、子供を肩車すると、肩の上で子供がさよならの挨拶をして追い返されたのです。(なんて無礼なやつ)

しばらくして王は退位。意中の息子が後を継ぎ、新王が貿易を自由化したという。

main

占星術もこれに似ているのではないか、と先日思った。

宮廷お抱えになったというのに、まだこんな下町にきて、占星研究家どうしの付き合いをしてくれるのか。ありがたいねぇ。うん、いつもご馳走になります

……そうだねぇ。最近は西からきたジプシーが、こんな説を教えてくれたよ。火星が天蝎宮に入るとき、力を増すに違いない

それは面白いな。どこから西のどの辺りから来たって ?

さぁ、あいつら適当だから。森の向こうの A**** 城下あたりは通ってきたようだが

( A*** の向こうでサソリの紋章をもつといえば、C*** だな。あそこのお抱え占星学者 D*** は優秀だ。もっともらしい学説を作るのはお手のものだろう。さて、火星がその位置に入るのはいつかな。帰って調べねば)

このあと、別の学説をたてて政略結婚の意図があることが街の噂を経て D*** に伝わり、D*** がそれとなく城主の息子を誘導して色気づかせ、時間稼ぎをする。

何度かのやりとりの結果、戦火はなく民衆も幸せに暮らし、貴族や兵隊も戦争で疲弊せずに済んだ。

なんてね。星で時期を示し、学説・解釈という形でメッセージを送れば、王に助言する占星学者のあいだで密かなメッセージが送れ、水面下で交渉も和平もなっただろうという想像だ。あるいは、交渉ではなくスパイと主だったかもしれない。暗喩による暗号。

end

それは占星学、占星術に失礼だ、冒涜だ。真摯な学者が解釈を恣意で歪めるはずがない、て ?

曲学阿世は曲世阿学よりマシだ。本当に大切な自分の仕事がなにか分かっていれば、宮廷お付きの占星学者・兼・相談役が、ほかに採る道はないだろう。それ位に目端が利かなくて、お抱えの地位にも上がれないだろう。

スピリチュアリストと呼ばないで (Don't call me Eharanism)

発端

twitter で、spilitus という名前のリストにフォローされた。

日本で スピリチュアルの人 と言われると違和感がある。

前はそうでもなかった。ちかごろ調べて、江原なにがしという人の運営する日本スピリチュアル・ヒーラー協会のシンパを指す日本語になっているとわかって、俺は違うと言い出した。

なぜ違和感があるのか、嫌悪があるのかを半日考え、すっきりしたので意見表明としてまとめる。

日本のスピリチュアルと私の方向は正反対

ジョゼフ =ポジティブ= マーフィーカーネギー江原なにがし。

スピリチュアル の日本で流布した形は、コトダマ信仰に半ば同化されている。

悪い事が起きると言ったり、思ったりすると悪い事が起きるから、言ったらダメなんです

こういうことを考えてはいけない。考えないようにしなくては。そんな考えが心に浮かびかけても錯覚だから、無視しなくちゃ。考えないようにしなくちゃ。

マーフィとカーネギーに支配されて傾倒して、事業の引き際を失い破産した知り合いがいる。

コトダマ信仰マーフィー派、コトダマ信仰スピリチュアル派の教義は、不安やネガティヴイメージを突き詰めて考えないこと。

私がやっているのは、自分の中の不安や違和感を解明して、受け入れたり対処したりする道。日本語でスピリチュアリストと呼ばれたら困ってしまう。

悪いことが起きるというと悪い事が起きるんじゃないよ。

悪い事が起きそうな違和感を人間はしばしば感じるんだよ。

なぜ悪い結果が起きそうな気がするのか、理由を突き詰めて考え、対処しなかったら、悪い事が往々に起きるんだよ。

スピリチュアリスト はオーラの見方を人に説く

近ごろコーヒーがペーパードリップでも美味しく淹れられるようになった。豆の粉がお湯の中でどう動いているかがイメージできるようになったからだ。

料理の達人は言う。鍋の中の肉の様子が視えるんですよ

コンディションが向けば、私も子供の頃から鍋の中の様子が 視え た。常時視えるわけでもなかったし、視えた途中経過と、できた料理の味を較べて検証し、次に料理を作るときにどう工夫するか鍛錬しなかったから、料理は上達しなかった。

さて、プロの料理人は料理教室の生徒に向かって あなたにも鍋の中の様子がイメージできるようになりますよ。最初は蓋をしたヤカンの中の水の状態を想像して…… と説くだろうか。

人に押し付けるのは、自分だけ能力を持つのが不安だから

タロッティスト、オカルティストと呼ばれるのは、力不足で面はゆいが構わない。タロットを考察の材料・道具にすることが多いのは事実だし、西洋オカルト = 錬金術 (の十九世紀再解釈) の中には経験知があるだろうと読んでいる。

オカルトの体系は信頼していない。体系化した人々に、自分と似た心の形をみて、同類として分類しているだけだ。

直観の洞察が社会で理解されない、だが往々にして正しいために、直観こそが天啓であり唯一無二、無謬の能力として崇拝したのが十九世紀オカルティスト、と今は捉えている。

日本のスピリチュアリストの何人かは、オーラ視や別の感覚を誇るかもしれない。絶対であり正しいというかもしれない。みな学んでほしいというかもしれない。

直観の洞察と同様、正しいことは多いが、他人に方法論を押し付けるものでもない。 得てしまった能力を、社会に融和するように使うだけだ。

無自覚に使って他者を混乱させる = 暴走を防ぐためにオカルトという体系がある。密教という体系がある。本当に能力のある人は、師につかずとも本を読めば必要なことを学べる。暴走に困っていないひとが無理に学ぶ体系でもない。

礼なんて、よしとくれ。これは贈り物じゃない。呪いだよ!

小説アルケミストより

2010-03-30

月のきれいな夜に (Blue Moon)

1.

バスの中で、ふと引いた4枚のうちに [18:月] が出た。

ほかの3枚はだいたい認識に合致する。この [18:月] だけがわからなかった。不適切というのではない。今まで [18:月] がぴんとくるような状況に遭ったことがない = カードの意味そのものが掴みきれなかったのだ。

よく不安の意味とされる。前に引いて印象深かったのが、友人SE の手伝いで仕事をしようとしていたとき。二匹の犬が同じ目的にむかって、成功するかどうか不安がりながら向かっている と解釈しようとした。仕事は私がリタイアして、プロジェクトが成功したかどうかわからない。

トランプは心の危機や原型ではないかと考えだしたのはそのあと。年末に [19:太陽] の意味をさまざまに考え、そのあと実現してやっと [0:愚者] との違いが腑に落ちた。

[17:星] をなぜ たましい=アニマ とするのか。するとアニムスはどこにいるのか、と散歩のついでに考えていたのが昨日。これも考えに決着がついた。そのタイミングで出た [18:月] だ。

2.

いや、mixi で トランプ22枚で恋人のことを念頭にカードを引き、出たカードが[15:悪魔]逆でした。浮気されていますか , 浮気なら [18:月] じゃないの という問答を見かけたのも気になっていたんだな。

では他に 浮気 を示しそうなカードがあるだろうか。たしかに76枚、正逆両方の位置で思い当たるものがない。だが、これは私がカードに顕れるとしたら心の動き、現実は映さないと思っているせいだろうと結論づけた。

浮気って原因でもなければ、対人で問題でもないだろう。本人と相手の間にあって、浮気という現象が問題になるのは心変わり , 約束を破られる , 信頼ができなくなる であって、現象としてすでに別の異性と関係をもったかどうかなんて、大事なことじゃない。

そして、もちろんどれも [18:月] の象意とは思えない。

3.

水面に映る月、水より這い出る甲殻類。だいたいの結論が出たころに帰り着いた。

浮気 解釈がどれだけ伝統的なものなのか気になっていたので、いくつかの書籍やサイトを確認した。

日常生活のなかに、望みもしない (望んだことを意識していない) 未言語からの認識や欲望が影を差すと、まぁ不安ではあるよね。でもそれは次につながる契機。

たしかに恋愛に夢中の人について、本人についてカード引いて [18:月] が出たら、あなた、なにか疑いをもっていませんか と訊く価値はあるし、それは本人が薄々感じていたパートナの浮気かもしれない。結果としてはね。

私の仕事の話では、ふたりで要件定義ができたと思っていたが、見落としがあることを無自覚に感じて、引っかかって私が書類をかけなかった。まさに [18:月] が自分の状態を映していた。(そういえば、なぜあの時に限って 自分の心の状態がこう移行しかけている ではなく、現実の未来、進捗をみようとしたのだ ? だから読み違えたのだろう。)

おりしも、今月二回目の満月、いわゆるブルームーンだ。黄色い円盤が重くのしかかる、そんな夜だった。

直観 (intuiting) と直観的思考

直観 は勝手に降りてくる認識。ユング心理学からの由来以外で使われたのを未だ見たことがない。 直感 とは別の漢字を宛てたのは名訳だろう。

河合隼雄氏は 本質把握 , 焼き物を見たときに これで抹茶を飲むならば、どの材料でどんな風に作った茶が美味しいか に頭が働くのが直観 という説明をした。

本質把握 だからといって 表層把握 である感覚 = sencing よりも秀れているわけではない。最大の欠点は、他人に伝達するのが難しいこと。

直観思考 は直観とは違う。A と B は類似するもの、互いに連想を誘うものがあるが、どこが似ているのだろうか と深く追求すること。

個人的には、直観だけあって直観思考をしないと物事のバランスが取れないと思っている。

針の穴を通すような直観と確信は、少しでも違和感を感 じたら骨髄まで切り刻む論理と分析、猜疑心に支えられる。それが両輪、片方を動かすのをさぼったらたちまち道を外れて奈落の底だ

昨年八月末、私がある処に投稿したものの再掲

直観に無自覚に身を任せないための、精神修養としての mysticism: オカルト , 神秘主義 といった先人の体系への尊敬。

先人の作ったオカルトは、経験知の集積。そのロジックまでは盲信しないという姿勢で、かれこれ八ヶ月考え続けている。

たとえば、タロットのトランプ22枚をカバラのパスに宛てて瞑想するという技法。とても有名だが、これは勇み足と考えている。

カバラの内容を虚心にみれば、既存 (Golden Dawn団作成) の対応でも不自然だし、他に適切なものがあるとも思えない。22 という数字の一致に感じた類似を、自分の直観を信じすぎてしまったのだろうと棄却した。

簡単に棄却したわけではない。本気で長く実践した結果として棄却したので、それなりの自信をもっている

2010-03-27

怖いカードはあるか

半年の記録をつけていたノートの最後のページで、出て怖いカードがあるか数えはじめた。

カードと出会った当初より、[0:愚者] は良い印象だ。[13:死神] はすぐに仲良くなったし、[12:吊られた男] は格好良い。自己陶酔の恐れがあるので出たら警戒するが。

ちかごろは [16:塔] 、[15:悪魔] 、[剣3] の良い意味も見えてきた。[棒7] は雄々しくて [剣5] , [剣7] も必要なことと捉える。[金貨5] や [剣10] は局面であって、危機ではない。

[棒10] , [金貨10] が出るとアーァと思うが、受け入れられる。[棒5] もやっと対処がわかった気がする。怖くない。

そうだ。いま一番怖いのは[盃6] だ。楽しい雰囲気の中、少女が優しげな道化師から Gift を受け取ってしまったかと思うと怖くてしかたない。ローティーンの娘をもつ父親だしね。

夢の形象

動いているタワーPC の横で眠ったから、ファンの音が耳につき、アイドリングする車の夢を見た。昨日のことだ。

内容からの考察はさて措く。仮に自然の残る山里に眠っていたら滝の音に誘われ、龍に仮託した同じ内容の夢を見たのだろうか。

納屋のような車庫と夜の公園は、龍の住処と森の奥深い空き地に置き換わったかもしれない。

山里でなく農村で、滝ではなく嵐の音に誘われたのなら、嵐が視たい夢のタイミングで来たことを興味深く思い、シンクロニティ = 機運 に思いを馳せたのか。

2010-03-25

ロジックから考える「時機」

歴史とタイミング

500以上 の発言を twitter に流していて、初の RT 波及が、この日記を呟いた記事だなんて、どうかしている。私は実務的な技術者であって、占い師でも、オカルトの考察家でもない。まして、そのての発言を twitter でしたのは たった2回目なのに。

というわけで、論理から解釈するタイミングと偶然の話を書く。

今日は貸出券を持っていかなかったので、引用はうろ覚えだ。また、井沢氏が初学者向けに書いたものだから、百も承知で平易に書いてくださったのをツッコムという野暮な真似だろうとは思う。

新教以前のキリスト教(カソリック) では、教皇が現人神のような扱いでした。その他にも階級がありました。

それはおかしいじゃないか、聖書によると人間はみな泥から作られた。平等なはずだ、ということを言い出したのがマルチン・ルターです。ルターは 自分たちの聖書の解釈を弾圧するな と抵抗 (プロテスト) しました。

その頃、グーテンベルグが発明した印刷の技術が普及し始めました。

それまで聖書は一般の手には入らないものでした。ほとんどの人は教会から話を聞くしか無かったわけで、聖書の解釈を自由にするなど無理な話でした。都合よく印刷によって聖書が、階級が下の人々の手に入るようになったのです。

元本は 井沢元彦の世界宗教講座 ( 井沢元彦 1993 )なんだけれど…… 引用と言ってよいものかどうかわからないくらいうろ覚えです。興味を惹かれた方は、井沢氏の名文を参照してください。

さて、ルターはもともとカソリックの神父だったから、聖書を手に取り、自分の頭で読み解釈する環境があった。

だが、都合よく印刷技術の発達により聖書が普及した のではないだろう。それまでに何人も教会に籍を置きながら、あるいは王侯貴族で同様のことを考えた人はいたけれど、ほかの人に説得力をもって広げるためには聖書の普及を待たなければならなかった。そのタイミングで考えつき、名を残したのがマルチン・ルターだと考えるのが自然だ。

世界を解釈するとき、本当に奇遇としか言えないタイミングもある。たまたま番が回ってきたようなタイミングもある。

タロットとタイミング

アマチュアだから、札を引いて解釈可能な並びを引く率が高い、という気がしてきた。

きづいてから10ヶ月、すべてをここに晒しているわけではないが、ほとんど記録しているので、瞭らかに解釈可能なカードの並びばかり得ていることは間違いない。---残念ながら、それが正鵠を得ていたかどうかは検証不能な内容ばかりだが--

なぜなら、素人は 引くべき時 と感じるまでカードを引かない自由があるからだ。(引かないという強い意志も必要だが)

カード78枚156通りの単語という、制約条件の中で現れる形で解釈できるような形に問いを整理できた時点が、自分でカードを引こうと思えるタイミングなのかもしれない。

確率のセンス

確率のセンス

妙な札の並びをみるたびに、私は確率の計算をする。

一度の出来事に確率の意味はない。それでも計算するのは、一般化した性質を抜き出そうとするときに、日常の感覚とどれ位近いかを検証の材料にするため。

今はもう公開できていない私の日記、去年の5月1日にこんな記載がある。

[essay] 夢を見た

なぜか、電灯を点けっぱなしにして、布団を頭からかぶって暗くして眠っていた。

妙な夢を見た

自分の作った人工無能との会話がかみあってしまって、神はさいころを振った結果で全能を示される と舞い上がってしまう男の伝説だ。

うまく肉づけすれば読める話になりそう。

ひとことでまとめれば、数学のセンスがあっても確率のセンスがない。

人為ですら起こしうるできごとが、偶然に起きないはずがない

珍しい並びを得たとする。ケルト十字のつもりで10枚引いて、トランプが0番愚者から9番隠者まで順序よく並んでも良い。特定のスート、金貨なら金貨が同様に並んでも良い。もっと「ありそうな」できごとでも、人は往々に驚く。

確率を計算して かれこれ500回は引いているのだから、1回くらいは起きるさ と言うほうがセンスがない。その世界観は、初心者に引かせていきなり稀少な並びをみたときに崩壊する。どんな稀少な確率の出来事も、起きる時には起きるのだ。

ただ受け入れる。矢が自然に弓を離れるように。そういう時機がある。

すべてリバース

私が日本のタロット本を読み漁っていたころ、30〜25年前に記憶がないが、ちかごろは すべて逆位置で札が出たら、カードに嫌われているのだから 今日は占うべきではない とすべてご破算にして占うのを翌日に回せ という説があるそうだ。

たかだか 1024 分の一の確率に、畏れを感じるようでは札の並びを受け入れる時機が心にきていないということだからご破算にしてしまえ、ということなのだと思う。

ケルト十字で10枚引く時、 毎回に 156 × 154 × 152 × 150 × 148 × 146 × 140 × 138 で 4,675,765,217,094,107,136,000 通りの事象からひとつを選んでいる。

言い換えると、 0.000000000000000000000213868736 の確率から一つを選んでいるのだ。

すべてが特別。とくに意味はない。畏れるならば毎回畏れるべき。

7枚ずつ引く

7枚ずつ引くのを伝統とすることがある。

今まで、飛ばした6枚には、表に顕れなかった底の流れが表示されるのかもしれないと解釈しながら、深く考えなかった。

稀少な並びを引き当ててしまったときに、いくらかでも自分が納得できるようにという自衛、予防策ではないだろうか。今回考えていて、ふとそう思った。

ま、実際は札を人為で繰って他人にアドバイスするときにイカサマがしやすいからだろう、とも思うが。

天和を狙う

20年ほど前、麻雀に熱中していたときに。今年の目標、俺は四暗刻を3回和了る。 じゃあ、俺は九蓮宝塔だ という遣り取りになって じゃあ、俺は天和/地和を和了ろう という言葉が口から出た。

どうやって狙うんだよ というツッコミがもちろん入ったが、思い返すと四暗刻を狙うのも天和を狙うのも変わらない。いくら狙っても、そこにマッチした配牌と自摸がこないと和了れないのだ。なにも変わらない。

ありえないできごと、信じられないできごと

ありえないことは起きない、信じがたいことは、しばしば起きる あるとき、ふと思いついた科白だ。

もちろん、私自身が ありえない と叫ぼうとして、気づいて落ち着くために言った言葉。起きたことは起きたこと。ありえないのではない、信じがたいのだ。

そしてなぜ信じがたいのかといえば、幼いころに 起これば良いな と期待して、叶わなかったときに こんなことは滅多に起きない。起きるはずがない と自分に言い聞かせ、だんだんにそれを世界観にしてきたからではないだろうか。

人為ですら起こしうるできごとが、偶然に起きないはずがない。もちろん毎回には起きないが、ときに起きる。

2010-03-23

守破離

本人の宣伝や、周りの評価として、この半年に何度か見かけるLyrical Cards さんのタロット物語

よく練って作られた内容なのだな、とは伝わる。でも私は精読しない。前にリンクを集めてメモったときに書いたような気がするが、英語など自分の思考と少し遠い言語で書いてるサイトが好き。

タロー札に遭った10歳〜15歳のときならば、こういう内容が好きだった。いまは読む気がしない。それぞれのカードを自分の人生で出会った様々な局面に当てはめて考えるほうが実用的だからだ。私みたいに四十過ぎていれば、自然なことじゃないかな。

独り暮らしをはじめた十八歳から、タロー札とは縁が遠くなって、昨夏に再開したときには数札の意味など忘れていた。なぜ画風に惹かれて買った数札に画が描かれていないカードしか手許にないのかと苦労したし、思い浮かべる数札の図柄はやはりパメラさんの画 。それくらいにあやふやな頭でも、だ。

カード一枚々々は外国語の単語に似ている。意味内容の範囲は、日本語と違う。むろん英単語とも仏単語とも違う。同じならば画に描いたカードを使う必要はない。

日本語に翻訳すると意味の拡散するカードを、並べて中心を探ることでストーリ(筋) が生まれる。ストーリの中で個々の意味が生きてくる。

記憶術も悪くない。どんな早熟でもハタチ前ならば、思い起こせる人生の局面の抽出しなぞ、そう沢山はないから、どんな独創的な解釈も乱読する必要があるだろう。

でも、数字の順番に編んだストーリを読むのは、思い起こす時のイメージの幅が狭まるから良くないと思うんだ。よくできた物語であるほどね。

カードは局面や単語であって、その汎用性は、使いこなすということは、どれだけ沢山のストーリに別の文脈で使えるか、じゃないかな。

私の尊敬しない占い師さんが、カードに前後の文脈を持たせ、前に占ったときにこの意味・この人を指したからと囚われちゃいけません という意のことを書いていたが。意味の積み重ねと連鎖がその人にとってのカードの意義じゃない ?

同じ人、同じ問題について並べたときに、意味の累積が発生しないようなカードしか引けない奴は ヒキが悪い んだよ。そうなったら札引くのきっぱりやめるよ、私は。

2010-03-22

頭休めの確率計算

ちかごろ、人間関係について引かれた札のトランプ(大アルカナ) は原型に頼らないといけない大きな危機、もしくは原型に飲み込まれていること自体が人格の危機だと思っている。

人間関係を自分と相手で2枚引いた話を読んで、両方がトランプだったので もしもフルデッキ78枚の中から引いたのなら と但し書きをつけて自分なりの解説をしたのが先週。ためしに確率を計算して、日常の感覚に一致するか心に置いてみよう。

  • 2枚引いて、両方がトランプ : ( 22 × 21 ) ÷ ( 78 × 77 ) ≒ 8%
  • 2枚引いて、片方だけがトランプ : 2 × ( 22 × 56 ) ÷ ( 78 × 77 ) ≒ 41%
  • 2枚引いて、どちらもトランプではない : ( 56 × 55 ) ÷ ( 78 × 77 ) ≒ 51%

ついでにもう一つ。ニュートラルに、事件や思い込みでなく接しているという並び = コートカードの確率は ?

  • 二人ともニュートラル : ( 16 × 15 ) ÷ ( 78 × 77 ) ≒ 4%
  • 一人は事件に囚われている : 2 × ( 16 × 36 ) ÷ ( 78 × 77 ) ≒ 19%
  • 一人は原型や行動原理(Ace) に囚われている : 2 × ( 16 × 26 ) ÷ ( 78 × 77 ) ≒ 14%
  • 二人とも事件に囚われている : ( 36 × 35 ) ÷ ( 78 × 77 ) ≒ 21%
  • 二人ともが原型や行動原理 : ( 26 × 25 ) ÷ ( 78 × 77 ) ≒ 11%

あとの4パタンはいいや。これ以上に数字を出しても印象に残らなくなる。

告知

ふだんなら異端といわれることを恐れて言わないような、世界の認識の話を今日は公式日記のほうに 狂気は相対 の名前でまとめた。

内容はこちらのブログからの流れだが、公に結びつけられても構わない文章にまとまった (つもりだ) から。

2010-03-21

夢日記 10-03-21

おもしろい夢を観た

ちかごろ、深すぎて持ち帰れない夢か、浅くて他愛のない夢しかみることができていなかったが、久々に程よい夢だった。

内容はまだローカルの手帳にしか書けない。それもこれから。

二日後に追記

この日の寝る前にざっくりと文章にまとめたが、これは他人に説明できないや。

気恥ずかしいからでも、プライヴェートで自分や他人に差し障るからでもなく。内容が豊富で、細部に籠められているさまざまな意味は個人的な思い出に結びついていて、私の筆力では冗長になりすぎる。

ひとつだけ、このブログの話題に関連する話を書くと。思春期以降に夢に登場した女性はみなセクシャルな印象前に書いたが、今回は違った。

クラスの違う、顔見知りの同級生程度の位置づけと思われる、実在のモデルのいない少女が出てきた。中学、高校と男子校だったのにね。

親しくもないが通りすがりでもない他人という存在がでてきたのは、たぶん私自身が社会に復帰しようとしている現れだと思える。

実占

怒りをもて余して「自分のこと」を引いてみたりする

「稼げ」、もしくは「父に会え」とな

的確に札が引けた日に、毎回此処に上げていると、ぐだぐだした自分の感情や生活の記録になってしまうのが困る。

かといって、メモをひっくり返して忘れていた後の展開に呼応するカードの並びを見つけると、また頭を抱えたりする。

カード引いた時の高揚した気持ちが醒めないうちに、差し障りのなさそうなものはなるべく記録しようね。恥ずかしいけれど。

第一カードがトランプでなかったので (今回は) ほっとした

棒5 盃J 金貨10 金貨騎士 法皇逆 剣J
金貨A 盃王逆 金貨王 節制

Jack = Page ばかりが十字部分に出ると、自分の未熟を突きつけられたようで少し気が滅入る。もちろん「発展の余地あり」と好意的に捉えることは可能だが

-

2010-03-20

補足 (原型の支配)

原型に支配された人間関係 と言っても、交流分析という心理学の手法の言葉で ゲーム , もしくは ドラマ的交流 と言っても原理は同じです。

ゲーム よりも 原型に支配された という言葉のほうが、パターンが数々登録されているから便利なので、よく使います。それだけ。

腑に落ちた

15日の並びを再掲

この日、私が読みたかったのは、左側 (にカードを展開した) 男が、右側の女との関わりにおいて原型に支配されていないか だった。その気配を感じなかったので良しとし、全体の雰囲気から、なんとなく納得していた。

展開をしたときから、じつは中央の札が 節制 ではなく Art に思えていた、なにか新しいものを創ろうとしている結びつきと捉えていたことは最初に記載しておく。(逆位置 = 順調ではないわけだが)

さて、右側の上下にそれぞれトランプ = 原型が出たことは気にかかっていた。右は原型に支配されて、左を個人として捉えていないのだろうかと。或いは、右は左を個人としてではなく = アニマ の投影として観ているだけなのだろうか。どちらも実感にそぐわない、と。

このブログで度々書いていることだが、再度書く。カードに顕れるとしたら、どんなにヒキが良くてもせいぜい占者の認識。未言語かもしれないが、直観かもしれないが、正しいとは限らない。ただ占者の普段の意識と違う考えを引き出す援けになるに過ぎない。少なくとも、札を引いた本人である私はそう考えている。

けっきょく、問題意識がきちんと捉え直せれば、(そしてヒキが正しければ) カードは読めるし、そうでなければ未言語の納得のままに終わってしまうのだね。今回、カードを引く契機になったのは、自分が影の存在、トリックスターとして認識されているのではないか。自分こそが影の側面に対応する友人であって、全人格に関わらせてもらえていないのかであった。

そう言語化できれば、答は目の前にある。(あくまで占者の認識で) 、CUPS 2 は 魔術師逆 = トリックスター を通して認識されている、それを危惧しているという意味だ。もちろん、実際にどうだかは解らない。検証不能。あくまでカードを引いた人間の観点だ。

逆に左の男は、手に入れたばかりの観点、まだ未熟(逆位置) な情感(CUPS/水) という側面を振りかざして (Jack/Page) 相手の見せてくれている精神性、を理解しようとしている。

人の心理、関係なぞ検証不能。また時を経れば変わるし、真実の姿・状態を認識することはできないだろう。あくまで占者がなにを危惧してカードを引いたかであり、結果としてこの並びは占者の不安、疑問、不安をみごとに映し出していた、といえる。

2010-03-18

"It is true, but pity you have said it"

ISBN978-4-901510-75-2 「河合隼雄 心理療法家の誕生」(大塚信一 2009) を読んでいる。

シンクロニティは認識の問題だと思うんだ

占いなんて「未来や現実を見透すか」じゃなくて「その時に一番楽になって、かつ悔いの残らない解釈を呈示するか」だと思うんだ、少なくともタロー札は

ということを本の内容と無関係に考えたあと、読み進めたら「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という諺を河合氏が挙げると「そこまではついていけない」と指導教官に言われる話が出てきた (p.218)

2010-03-17

15日のカード、16日のカード

写真を確認したら、どうみても右側の並びで横切っているのは剣9、8じゃない。下も6ではなく5だろう。

うっかりは今まで度々やっているが、今回は本当に感情が認識をねじ曲げたかもしれない。

ところで昨晩は「構築のための破壊」を引いた。私のデッキでは番号のないトランプその2。

思った道を行くしかないね、苦しむだろうけれど仕方ないと一枚で脱力、放心していた。

逆位置だったけどな。

24時間程度たった今、状況認識にほかの解釈を気づき、収拾の手も打ってみたが。あの時、あの状況では既にあと戻りできなかった。

いや、気づかないままにあと戻りを図っても混乱・悪化させるだけだから。昨晩の時点のヒキは状況・認識に合致していたワケだ。

当たり・外れは検証不能として、悔いだけは残らないカードを的確に引く。

何を引いて認識に当てはめても大差なく、かつ迷っている時にカードを引いているとも解釈できる。

2010-03-15

余談だが

デッキも買い換えて、カードの癖による影響は考えづらくなっても。

星と節制を的確にセットで引くヒキには感心するばかりだ

久々に実占

なるほどね

相変わらず現実を解釈できるヒキがある。いまの状況、自分の識りたいことを得るには、どう展開するか二日考えた価値があった。

私(左) : 棒の4を剣7逆が横切っている。根底は盃ジャック逆、対手に見せているのは盃2

対手(右) : 剣6を剣8が横切っている。根底は魔術師逆、私に見えているのは星逆

間に横たわるのは節制逆

2010-03-14

断片

引くカードに顕れるとしたら己の心の持ちよう・処し方という大前提から話さないと、いきなりカード解釈を書いても日本では異端者か…… と苦笑するような遣り取りをしてしまった。

あまり深く考察したい出来事でもないので、受け流すために記載しておく

現世利益はないよ、事象に合わせて己を変えないと

2010-03-09

復帰させるか

ふと哲学のセンセイのお話を聴いてきて、ここで再々書いている 事象と解釈、現実 の話は、20年ほど前に流行ったフランス哲学の再発見だとわかった。

さて、幻視、幻聴。夢告げ、タロット。

とくに望んだわけでもなく、日常で無自覚に発揮してしまうと問題があるので客体化するためにはじめたこと。ちかごろ、また色々と問題が出てきたので、復活させる努力をしますかね。

昔話のように 幸せに暮らしました。まだ死んでいなければ、今でも生きているでしょう とはいかないのが現実というものだ。

もちろん、簡単じゃないだろう

2010-03-04

やはり、今は読めない

1.

いくつか気晴らしに、確実に面白いとわかっている未読の推理小説を借りた。

長編を一冊と、中編集の4編収録されているうちの3編を読んだ。

やはり、読めない。集中できない。

世界に対して、新しい解釈を求めていない今の心。小説すら読めないらしい。苦笑。

2.

戯れに、現れたカードに意味を解することのなかったコンピュータの乱数に、いま自分の一番懸念している人間関係を訊いた。

白黒のウェイト=パメラ版がきれいにケルト十字に展開されるCopyright © 2000 J.B. Hare. とかかれたサイト。

3回引いて、3回別の答。どれも解釈としていまの状態に適用可能、受け入れ可能。

だが、どれも違う。札を引き、現実に異なる解釈を求めるとき、読み取れるのは未言語な事象の中から対処すべき局面なのだろう。

行うべき方針が決まっているとき、そこに読める解釈は幾通りもある。

どの解釈を採ろうが、やるべきことは変わらない。ならば、札を読むことに意味はない。

3.

いま対処すべきすべての事柄が終わり、悔いを残し、解釈が必要になったときに。小説も、タローカードも、また活きるのだろう。

オカルト思考解禁…… しなくて済んだ

友人の住居の上の部屋、普段トラブルを起こしていた住人が自殺をしたという。

多少、凹んだ感じの文章を見たので、厄払いが必要ならば久々にオカルト的な知識を解禁しようかと一席設けた。金銭の都合で私の部屋で。

霊視などもちろん、できない。その手の感覚は、むしろ鈍感なほうだろう。ただ、オカルトな思いで否定的な感情に囚われているならば、オカルトの枠組み、ロジックで気分を変えてあげる必要があると思っただけだ。

殆ど読んだことはないが、京極夏彦の初期長編シリーズに近い考え方だね。

本人が気にしていたのは、トラブルが周囲にも知られていたので、自殺に追い込んだのは自分と思われているのではないか。住み辛くなるのではないか、というだけだった。オカルト論を炸裂させずに済んで助かった。

何度か、ここで書いているがまた書く。

オカルトと言われる、科学で未解明の部分。そのロジックを納得することは私にはないだろう。だが対症としての体系は、ある。それを識っていることは損にはならない。必要なときもある。

今回は引かずに済んだし、引いたとして的確な札の並びを得ることができたか。それは解らない。だが、タローカードを引き解釈をするということは、世界に別の解釈を与え、名付け、再生する作業。そう捉えていることを自分で再確認できた。

事象と現実のあいだには、常に解釈が介在する。科学の言葉であれ、オカルトの言葉であれ、解釈によって世界を塗り替えていくことができる。それも人の能力のひとつ。

友人は、私よりも科学による解釈が難しい出来事に何度か遭い、そういうこともあると受け入れているそうだ。伏見神社の鳥居の中を歩き方向を喪い、暮れに出会ったはずの人と家を朝に見失い、墓地の跡に白いもやを見たことがるという。

それらを、たとえば推理小説の枠組みで解釈することもできる。だが本人が気に病んでいないものを無理に解釈することもない、検証不能な過去の出来事。受け容れているならば、それで良い。

私はそういう現象に気づいたことはない。霊感という言葉でいうならば、おそらくないのだろう。

霊という言葉を使うか、使わないか。それはどうでも良い。世間には 感じる 人と、自分の認識を他に及ぼす 人がいるだろうとは思う。私は後者。勁い力で他を圧倒するものに、感覚は訪れない。そういう役割だ。

上に書いた3つのほか、彼の気に病んでいた一つの現象がある、と聞いた。

南禅寺にて。異形の僧が瞑想しているのを見て、この人は極端に偉い人か、世界の枠組みから外れた狂人だろう と思った瞬間、目を開けて見据えられたのだという。

私の解釈。友人が瞑想をしている立場として、逆でもおそらく感じることはあっただろう。それは人 (の大部分、感じる側の人) が誰しももつ感覚だ。友人は 見抜かれた のではない。お互いに呼応し、受け取ることができる相手に発信してしまったのだ。

だからどうということはない。科学の言葉で説明をつけるには未解明だが、たしかに感覚はある。だが畏れることはない。

そんな話をして別れた。