2010-12-13

善人なおもて往生す (0:Fool)

善人なおもて往生す、いわんば悪人をば 親鸞の言葉と記憶していた。調べると、その師匠の法然の言とされているらしい。

李下に冠を正さず というのは、李を盗まれることを持ち主が怖れているという想像力がないと果たし得ない。ときとして、あまりに無警戒だと、知らずに李下に冠を正すような真似をして非難される。非難した人が悪いわけじゃない。非難された側も、うかつではあるが悪くはない。だが、あまりに善人だとはいえる。

はやく芯からの 悪人になって、指差されるときにははじめから覚悟して汚名を被るときだけという境地に至りたいものだ。無邪気な善人はろくでもない。

Fool by deck Waite and Pamela Smith

善人は、崖から落ちてはじめて自分のいる場所に気づくらしいよ。

Petit papa noël (Hierophant)

季節だから、洋楽のクリスマス・ソングを言挙げするゲームがあった。

一番に思い出したのは、Nana Mouskouri 唄うPetit Papa noël

あぁ、そうか。Petit papa てのはサンタクロースだよと子供の頃に言われて丸憶えしていたが。Papa = Pope 、法皇のカードの原型のイタリア語では、お父さんと書いてあったな。

Tarot Hierophant

最近、とある本を読んでいて、登場人物のひとりをカードに当てれば法皇かと気づいた。近くにいて、危険すぎることをしないようにたしなめながら、手助けをする役目。あたかも幼稚園や、小学校低学年の教師のような。カソリック圏における法皇は、こんな優しい教師の役目なのかと今更に思った。もっと厳格に人を教えさとし、圧迫するように教えを押し付ける役柄のみを、逆位置の印象のみを強く抱いていたことを恥じた。

サンタクロースは小さな天の父。ひとりひとりの肉親とはべつに、心を導く教師。

こちらに掲げた動画は、Nana Mouskouri ではなく Tino Rossi の歌声です。字幕がついていたので

2010-12-09

月と星

「願うのは星に、昏さの中にいないと気付き得ぬものは月の下」

そんな単純な違いかと思ったりもする

2010-12-08

駄詩 -Hermit-

智を求めよう。
智を掲げてはならない
誇れば背中に君の影が大きく伸びるのだから

2010-12-06

オカルト信者でなくオカルト遣いだから (not a occultist )

オカルト信者じゃなくオカルト遣いだから という言葉を思いついたのは。先日に占い拒否を謳う人々と会ったあと。圧迫してしまい避けられたので言えなかったが、言えば良かったと思った言い回し。

オカルトは手段に過ぎないから。万全を期すため、心理学からもオカルトからも考察し、それぞれの善処を考えるだけだから。

今のところ、どちらにしても処しかた・心構えは同じ。両方で考えた内容が検算にもなるし補強にもなっている。ならばどちらも差別することはない。それだけの話。

今日もちょとした感覚の異常を感じ、体調・心理・西洋オカルト・日本の霊に対する俗説ふたつのそれぞれを仮定し、対処を考えたが同じ結論になった。ならばそれで良い。

星に願いを (When You Wish upon a Star)

新月の夜は星がきれいに見える。

新月の夜に願い事をする人々がいる。願う先は本来月ではなく、星空ではないか。

そうに気づいたのは、先の新月の夜。地元・東京で朔を迎えるのを避け、フェリーで海上から眺めた時だった。二十年前、奈良の遺跡保護地区。今年一月、陸奥。四十余年で三回しか印象に残る星空はない。

今日は新月。天文の時刻、2時36分に合わせたかのように目が醒め、夜を過ごしている。

カレンダの新月の夜、今晩を。先月の希みのように心穏やかに過ごせるだろうか。

新月の夜も、人は暦も知らずに少し熱狂するようだ。

2010-12-02

「引き寄せの法則」 ?

「引き寄せの法則」という言葉が出る度にうげっと思う。どんな古典オカルト・宗教にも、そんな都合の良い現象はないのにと。

あるのはただ、いままで気づかなかったチャンスに気づきうる心構えだけ。いままでは見落とすほど散漫に生きていただけ。

2010-11-30

内的現実、外的現実、小説 ( inner world , outer real , fiction )

11月が終わる。

少年のころの夢、小説家になることは本当に諦めたのか、書くのですよね と先週いわれた。

文筆業になりたかっただけで、書きたい題材などなかった。文章の修行は題材がなくともできるが、ストーリは構築できない。そのまま放ったらかしになっていた夢だし、もう書かない。そんな返事をしようとして、手が止まった。

今年のはじめ、一月。伏流水 という題名で、こんなことを書いた。

自分で考え産み出した心への考察は、生活との接点、擦り合わせができている。取りたてて書くのを忘れるほどに。

書くのを忘れていたら、文章だけを取り上げたら妄想・カルトと見分けがつかない。ちと文章が不適切だったということだ。

このとき、書くとしたらそれは思想の言葉ではなく、小説の言葉 という一節も書いて、消した。それが頭に残っていた。

河合隼雄、鷲田清一の対談で 臨床とことば (2003年) という本の中に、内的現実という言葉が出てきて、六月に読んだ時から思索ののキーワードのひとつになっている。

対談にある内的現実とは、たとえば、性的な犯罪を犯した者が反省の文章を 子供のころからアニメばかりみてきて と始めたとして、それは彼の心が生きてきた現実の中のつじつまであり、反省であり、外に対しては言い訳に過ぎないということ。だが、犯罪者が改悛したという心は伝わる。

伝わりすぎて 有害図書、映像作品反対 と叫ぶ人は、彼のモノガタリに巻き込まれた、といわれる。


幽霊が見える人がいる。神様の声が聴こえるひとがいる。私はときどき、タロット札の作者がなにを感じて意匠したのか、わがことのように感じることがある。これらはすべて、内的現実。

事象はひとつだが、現実は解釈を含み動く。解釈はそれぞれにあり、その中ですり合わせが効くものが共同幻想 = 外的現実となる。だが、本当に個人的なことがらは、外的現実と別に、内的な現実の中で位置を得てモノガタリとなる。


どんな思想も、モノガタリも。主人公がどんな体験をして、そこに解釈を加えたのかという背景なしでは伝わらない。ちかごろはそう思うようになった。その中では、外的現実と内的現実を区別する必要はない。が、体験ごと伝えないと。その人の実体験にせよ、典型としたフィクションにせよ、そこから始めないと、単なる妄言となる。

思想そのものにすら意味のない、この人はこんな体験をして、こう解釈することに決めたというモノガタリを書けるか。自分や周囲のプライバシーを侵さず、純粋にモノガタリとしてフィクションを一から作ることで。いまは、そんなことを考えている。


その結果、今週はまた意味ありげな夢ばかり見る。

2010-10-16

秋の詩 -Poem of Autumn-

幻想的な話題。詩のような、わかる人はいないと思える話題。

この春、和解したくて、許されたり許したりしにヒト月ぶりに言葉を交わせる人に会いに行くとき。
こんな穏やかな晴れた陽射しのなか、勝手に左目が閉じていた。しばらく右目だけで視た世界を感じながら歩いて、そんな世界に慣れてから両目を開いた。

その人とその場で和解できなくとも、部屋を出てしばらく、晴れた日は右目で世界を見ようとする習慣が夏の半ばまで続いた。


今日。私に似ているけれどどうしても許す気になれない、自力では反省することのできない、救えない人の話を聞いた。

部屋を出て外を歩くと、左目が力強い。
外側から巻き込むように、罪のない蝶すら叩き落としそうな力が出ている気がして青空に目を逸らす。

左目は許さない見方を脳に与える。
断罪でも、分析して射落とすのでもなく。理解することすら拒み叩き落とす。


それぞれに、対角線。二つの軸で対立し、右目で優しく受け入れないことも、左目は…… わからない。別の使い方もある気がするが、今はわからない。

ただそんな幻想を覚える秋の青空

2010-10-11

解釈に意味なく ( nonsense )

さきほど、物語を分析するのに、現実のドラマとしてとらえるか、心の中で原型がおりなすダイナミズムととらえるかに意味はないだろうと思えるようになった話を公式日記 の記事として書いた。そして、オカルトもそういうものなんだろうと思えてきた。

人と人のあいだにおきた物語は、現実かフィクションかに拘わらず、リアリティがあるならばそれはあったこと。 河合隼雄氏の言葉をこの一、二年集中的に読み返した中で、ことに印象深かった言葉のひとつ。

ひとが認識する 現実 はすべて、ものがたりとして記憶される。体験される。事象ではなく、真実は人の体験した数だけある。

起きた出来事は、人との関わりで、そのときに投げられた言葉、相手から受け取った解釈こみで記憶され、影響をうけてその人の体験・物語となる。

物理的な検証はべつにして、そこにものがたりはあった、のだ。岸田秀氏が共同幻想と名づけた解釈をある程度共有しないような人間関係は、浅い。

2010-09-26

昨日は妙な夢をみた

9月25日土曜日、ほぼ一日眠っていた。

夢の中、夢の言葉でずっと自己分析していた。心について一般化してあれこれ考えていた。

目が覚めてからも夢の言葉の延長でまとめようとしていたから、日常の側にもどったときに考えはどこかに行ってしまった。いくら夢の言葉がそれまで読んできた心理学の言葉に影響され、現実の中でも夢と心理の言葉に慣れ親しんで深く (人によって狂気と呼ぶような、個別で非実用な側に)踏み込む習慣をつけていても、本物の夢の中の抽象思考は、やはり日常の言葉に翻訳することはできないらしい。

2010-09-21

方向が違う、日本の (自称) スピリチュアリスト -accept your sense-

「自分がうっかりと他人の情報を受け取りすぎてしまうのがツラい」ってトコから始めたひとが、どうして不特定多数に自分の考えや感じたことを受け取ってほしいとか、共通言語でみながわかり合えるってほうに理想を求めるかね。

受けとるのはツラいと一番自分が知ってるはずが。

他人にわかってもらいたいという欲を抑え、自分が気づいてしまう部分を社会に適合させ、日常に向かうためにあるのが修行だろうに


迷惑をかける相手は、受け止めてもらう相手は、自分も相手を受け止めるんだと覚悟を決めた、ごく少数の心許せる相手にしときなよ

2010-09-18

石日記 (Power stone diary) vol.1

パワーストーンという名前で日本で呼ばれるようになったのはいつだったか。個別の効能を謳った石は昔からあったし、おみくじを引くような軽いノリでローティーンの頃から何度も買っていた。わりとすぐに効果がない・効かなくなったと飽きて紛失している。

タロットの話をするようになり、浄化という概念があり、石も浄化で効果が蘇ると言われることを知った。先週末にこの手の話題が忌憚なくできる人々と会い、水晶は水道水に晒すだけで良いらしいという話を聞いた。

月曜日、四日前。それでは久しぶりに自分用に石を買おうと思った。今年二回目。その前に石を買ったのは、五年ほど前に娘に贈った水晶球だ。(ん、自分用に買ったのを即座にねだられてあげたのだったかな ?) 直径 5cm ほどで、千円前後だったと思う。それくらいのものを買うつもりだった。

石の話をした女性が指に品良くはめていたオパールの印象があったせいだろう。ブラックオニキスの大きな、いかにも魔術師っぽく見える指輪に惹かれてこれを買ってしまった。アヤシイ。アヤシ過ぎる。ちなみに予算オーヴァー、2,600円。

帰宅して検索するとパワーストーンのサイトの数々では、ブラックオニキスは魔除けと日常的なものごとに集中できる効能があるという。オニキスは種類によって水に弱いから塩などで浄化しろと書いてある。ちと後悔した。

翌朝、鉱物としてのオニキスを検索した。石英だという。

子供の頃に持っていた鉱物標本では、方解石と石英、雲母が好きだったな。みな四角い結晶。あれ ? 四角い結晶に思いを馳せることで精神の安定を図ると、ちかごろ読んだ気がする。調べた。水晶も石英。

(あとで読み返して思ったが、雲母は六角形だっけ)

この指輪の石はとくに多孔性のオニキスでもなく、水に晒しても劣化しないだろう。なんだ、ふつうの水晶と同様に意識し、取り扱っても良いのか。ほっとして睡眠のほかのほとんどの時間、身につけていた。あまり日常の仕事に気分が向いたとは思えなかった。木曜日までは。

金曜日。外出して人の気配にあてられ、アヤシイからと外していた指輪を再びつけた。多少は精神状態が違うね、もちろん自己暗示もあるだろう。そこは区別しない。

しばらく用事のために歩きながら至った結論。私の場合、石に力があるとしても自分のコンディションのほうが強いのだとわかる。多少は変動する。だが、ずっと身につけていても効果はわからない。補正された調子の中で左右されるから。

むしろ石に私が与える影響のほうが強いのではないだろうかと、自分の気配が四角の結晶に収束され整うイメージをもってみた。わりに気分が良い。

夕刻から娘に会い、この指輪を娘にしばらくはめさせてみた。気に入られたが、さすがにサイズが彼女には大きいからねだられはしない。とはいえ見せびらかすだけというのも気分が悪いので、そのての石ショップにも食後寄る。

500円でけっこう大きな、手に握れる大きさの原石タイプ型の水晶をまた私用に買ってしまった。娘と喫茶店で本を読むときに卓上に置いたり、帰路に握りながら意識を向けてみたり。

そうね。コリを覚えている肩に当て、四角い結晶を経由してコリが出て行くイメージの補助にする。これは効く。コリが軽減する。それは自己暗示も含め、あるいは石にもし力があるとしても、そのイメージを本人が描かず人に押し当てられたのでは何の役にも立たない、かもしれない。少なくともこれほどの効果はないだろう。

娘とみた石、たとえば月長石に彼女は惹かれていた。結晶の形がどうだかしらないが、これに集中して効果があるとしたら、石英に託す直線の動線ではなく、むしろ円に近いものだろう。適切なイメージがあって、私ははじめて石に効果を期待できた。

少年のころの私は、日常にむける覇気や力強さがないと虎目石を求め好んでいた。だが予算の都合で珠のかたち。集中するといえば珠の中心に向けるという固定観念があった。それでは、覇気も力強さも得られないよな~。

なぜ私はウェイト版を使わないか ( Why I dont use Waite-Pamela Tarot )

今年六月、若い人に マルセイユ版タロットで占いをするのための解説書はありませんか と問われて小一時間話した。

要約すると、マルセイユのためのタロット本がたとえあったとしても意味はない、と答えた。それはなぜか。

タロットという遊びの札が意味を確立し占いとして当たると一般的に言われるようになったのは、深読みの結果としてさまざまの智慧が付加されたウェイト版が世に出てからであり、さらに日常的な局面の出来事に当てはめて価値のある言葉が多いと認知されるようになったのはニューエイジといわれる世代のエデン・グレイが、その時代に合わせて平易で日常的な解説をしてから。それ以前のカード本来とされる意味を知っても占いには役立ちにくいということだ。現代の日本に生きる話相手にとっては。

この会話のあとマルセイユ版 タロットのABC なる書籍が出たが、未だ読んでいない。

先日、アマチュアなタロット遣いが私ふくめて四人で茶話会をした。雑談がメインであったが、使い方や読み取る意味が、同じ名前の並べ方をしていてもそれぞれに違うということから各自の占いの披露となった。いや、私ひとり人に伝えるための占いがとびきり下手だという馬脚を現わしたのだが、それはともあれ。

私の使っているラビリンス・タロット の画では、慣れていないし見て分かり辛いと大変に不評。

何年かカードをろくに触らなかったあと、このデッキで引くようになってからいろいろと考察が深まったのだが。それは何故だろう。なぜ私は、ウェイト版のタロットを解釈のよすがとしながらこの札を使っているのか、という話。

フランスに四年いた。日本人学校でフランス語は落ちこぼれたが、絵画・彫刻・教会などの建造物・街並みに触れていた。また日本語の書籍に飢え、父の主に探偵小説で主に構成される蔵書を貪り、なかに翻訳の古典・名著がたくさんあった。八歳から十一歳のことだ。

それである程度ヨーロッパ語圏の文化に触れていたが、タロットに出会ったのが十一歳。帰国後に本格に熱中したのが、十三歳から十六歳だ。書籍のほとんどない頃。また瞑想の材料にすると良いと勧められたのがウェイト版を買った理由なので、ひたすら画をみて、画から学ぼう。それだけで智慧を得られると勘違いしていた。

ウェイトがデザインを指示した (数札のほとんどは画家パメラの功績ではないかと伊泉氏は指摘している )札には、様々の象徴、寓意が埋め込まれている。その一つ々々を頭で解析した。いわゆる図象学だ。

美術館に連れ出されて眺めていた画や彫刻、翻訳小説の中の個々のエピソードが頭の中で熟成されたのだろう。わりとヨーロッパの文化の言葉でものごとを考える部分が大きくなった。おかげで直観優位に思いつき喋るのとあいまって、同じ日本語ではないと言われること、自分でも思うことも多々あるという欠陥もできたが。

その結果、私の頭のなかにはウェイト版の画が灼きついていると同時に。ウェイト版の画を見ると個々のシンボルを言葉で、日本語で解釈し個々に捉われる という大変に大きな不具合があるようだ。

他の画を見て、頭の中のぼんやりしたイメージとしてのウェイト版の全体像を思い出すことによって、はじめて言語から構成するのでなく、イメージを連鎖させることが楽になったのだろう。

ほとんどの人の参考にならない、私だけの理由。

内的体験と伝達 ( inner experience and communication )

広義のオカルト の言葉はアヤシイ。当たり前だ。一見すると理路整然と語られているが、実証されていない、信じがたいアヤシイものを一括りにして世間でオカルトというのだから。

直観を言葉で論理づけようとしたもののうち、実証不能なものをオカルトという。言葉に表現するのは、どこから否定できるか、否定できる部分はないかを自分で検証するため。そして直観はこれまで生きてきた体験や、個々の資質から現れ出る。似た体験をもち、似た資質をもつ人にしか伝わり得ないし、同じ文化の言葉でないと伝わらない。

神話的な体験(ヌミノース)のあと、いきなり日常のロジックに走り人はバランスを取る。

ユング自伝 Iより抜粋・要約

言葉なんていうのは、体験した人のかいた汗のようなものだ。それを読んで同じ領域に行こうとすること自体、発想がずれている。だから 大事なことは言葉ではつたわらない といわれる。

オカルトの原義は 秘儀(→補足1 )、弟子にしか伝わらず、隠しているといわれていた。隠すのではない。必要なときに必要な助言をすることによってしか伝わらないものがある。(→補足2)

と言っている私が、若いころから乱読した本から組み合わせた言葉で喋っているだけで師匠と呼べる相手はいないというのも矛盾だが。

しばらく前に買って、今日やっと一気に半分目を通した本がある。あなたの人生を変えるタロットパスワーク実践マニュアル。アッシャー界だ、なんだとアヤシイ言葉がテンコ盛り。著者の松村さんは古典文献に詳しい方だから、そんな言葉がポンポン出てくる。知らない言葉は読み飛ばすコンディションがないと読めない本だ。

マラソン選手がマラソンの体験を振り返って語った言葉を読んでマラソンが上達するか。するわけがない。所々の、あぁこれわかるという部分だけを読むしか役立てる手段はない。

オカルトで高みに至ると信じている人は、せめて登山記と登山の方法論に喩えろと言うだろう。私はその説はとらない。高さに意味はない。それは個々の内的体験。価値があるのは人生で生み出した現実の成果。錬金の庭から採れる収穫と思っている。

そしてつくづく思う。ローティーンでヨガから禅に至る瞑想の技法をしり何度も体験したが。それはそれで自分の生活からより多くの知恵を効率的に導く役に立ったが。

個々の他人の役に立つ智慧は生活を多くこなさないと得ることができない。また言葉で伝えることに意味がない以上、生活で活かすことのできない部分、ものや実証可能な説を産み出せない言葉が単体では意味がない、と。瞑想そのものではどんな言葉で導かれても人生は変わらない。


補足1

また、共通の資質からはみ出した個々の感覚・体験をアヤシイから社会生活を送るために隠す技法、という意味でも秘儀なのではないかと疑っている。

補足2

タロットカードの中で人に伝える書籍を持っているのは女教皇、隠すもの。

相手の話をまず受け取り、相手に合った言葉を適切に選んで喋るものだけが、知恵を伝えられる。もちろん全部は伝えられない。誰も全部は受け取れない。

という言葉を自分の都合で晒すことの矛盾があるわけだが

真善美と評される部分と、悪と捉えられる部分の両方をもつ人が、そのお互いをつなぎ、相手のどんな側面にも対応しうる言葉を伝えられるだろうという、仮定された理想の教師、だと今は捉えている。

2010-09-08

コートカードは、当たるが読めない (difficult translate courts)

また実占記録を此処に挙げていた今年の春分すぎ、気分を鎮めようとケルト十字で十枚引いて、最後の一枚に出た金貨の王のカードに父を連想したことを書いた。

あのときは素直に読めたし、そんなことでもなかったら会えなかった父との酒盛りで気が収まった。だがそのあとに引くコートカードは……
あとになると分かるし、そこに示された人に会うと、いや遭うとものごとはすんなりうまく行くのだが。札を引いた時点で誰のことかわかることは仲々ない。
近頃は「どうせ会えるのだろう」と解釈を諦めている。

今日も日常の用をしていて、この半年て類似の問題で頻繁に出た金貨ジャックを、11歳の自分の娘にあてはめると全て得心がいくのに気づいて膝を叩いた。

なるほどね。外出先で参照できるいくつかの記録を当たった範囲ては、確かに娘で実現している。そういえば、あのとき電話で話した、などなど。

すでに子供でなく少女であることは疾うから認識していたが、しかしこれは父親として気づきづらい盲点だよな……

2010-08-27

Marcia Masino を読みながら (Reading Easy Tarot Guide ) vol.1

題材

アマゾンから購入したEasy Tarot をもって、ファミレスに涼んでいた。

Lesson 4. ACEs , TWOs and THREEs の冒頭 を読んで、いくつか思ったことがある。

The element of fire and its active, combustible force can be felt from the Ace of Wands. Fire is symbolic of our desires toword ambitions and goals in our life. Water is the Ace of Cups, with its flowing, creative and spiritual aspects. Power, mental and aggressive, exudes from the Ace of Swords in the air suit, suggesting this card's elements as active and positively expressed. Air symbolizes the wind, always moving and changing, a perfect metaphor for our thoughts and actions in life.

Ther force of earch, its stability and solidity, is clearly felt from the Ace of Pentacles. Notice in this Ace the garden has been cultivated and tended, suggesting to us that skill, forethought, effort and perseverance are qualities needed to make our dreams tangible and real.

ひとつ目

私は、日本語のなかに入った スピリチュアル という単語が嫌いだ。だが、上記の文章を読んで、やっと英語の spiritual が腑に落ちた気がした。

霊的 , 生まれ変わりを信じる , いっちゃってる 全部違う。日本語に訳すならば、すっきりする , 清々しい ではないかと。

ふたつ目

この段落の分け方をみて、Mercia Masino という女性は金貨 = 生活にもっとも重きをおいた、オカルトに溺れていない信頼できるひとなのだと感じた。

ほかの三つのスート (エレメント) から得られる知識も、エネルギーも。すべては 日常生活 のために従属する。そう思っているからこそ、真打ちとして、さいごに一つだけべつに Pentacle を置く。

以下は私の印象にすぎないが、エティラは自分の直観 = Wand に振り回された人。ウェイトは Wand に象される直観と情熱に溺れて、単なる優しさ、Emotion = Cup に気づかず、気づいたら自分になかったが故に霊性とあがめたてまつり、却って見喪った人。クロウリーは、すべてを Sword 、つまりロジックや数理、占星の理にあてはめようと一生をあがいた人。

ときどき クロウリーは性魔術で識られ という記述をみるが、クロウリーは性を崇拝したのではなく、性すらも論理で解き明かせるはずだ、ほら解き明かせた。みんな視ろよ とあがいていたように感じる。

2010-08-05

タロットに人生の指針を求めると自省的になりすぎるか ( Introversion cards and extraversion cards )

アプローチ

カードに人生の指針を追い求めると、社会との関わりが少なくなりすぎないだろうか。

タロットカードは仏教でいう小乗、山篭りをして自分と対話をする印象が強いので気がかりになった。

今の自分の感覚で、78枚のカードを 社会との関わりで実現しうる状態 , 自分の中に沈潜して実現する状態 に分類してみる。思ったよりも、社会の中、日常のうちで人と関わってこそ実現できる状態のカードが多かったので安心した。

分類できないカード : 2枚

  • T10 : 運命の輪
  • T17 : 星

他者との関わりで実現するカード : 35枚

  • 1 : 魔術師
  • 2 : 女教皇
  • 4 : 皇帝
  • 5 : 法皇
  • 7 : 戦車
  • 13 : 死神
  • 14 : 節制
  • 19 : 太陽
  • 22 : 世界
  • 無番 愚者
  • 棒 : 王 , 女王
  • 盃 : 王
  • 剣 : 王
  • 金貨 : 女王 , 騎士 , ページ
  • 棒 : 3 , 4 , 5 , 6 , 7 , 8 , 10
  • 盃 : 2 , 3 , 4 , 6 , 7 , 10 , Ace
  • 剣 : 5
  • 金貨 : 2 , 6 , Ace

他者と十全に関われていない感じのカード : 11枚

  • 6 : 恋人
  • 8 : 正義
  • 棒 : 騎士 , ページ
  • 盃 : 騎士
  • 剣 : 女王 , 騎士 , ページ
  • 棒 : 9 , Ace
  • 剣 : 2

他者との関りが薄いカード : 13枚

  • 18 : 月
  • 盃 : 女王 , ページ
  • 金貨 : 王
  • 棒 : 2
  • 盃 : 9
  • 剣 : 3 , 7 , 9 , Ace
  • 金貨 : 3 , 7 , 10

とても内省的なカード : 17枚

  • 3 : 女帝
  • 8 : 隠者
  • 11 : 力
  • 13 : 吊られた男
  • 15 : 悪魔
  • 16 : 塔
  • 20 : 審判
  • 盃 : 5 , 8
  • 剣 : 4 , 6 , 8 , 10
  • 金貨 : 4 , 5 , 8 , 9

終わりに

タロットの札はカバラ由来の数秘術に完全に結びついていると主張する人は、明確な基準でもっと別のことをいうだろう。

今回の分類は、今日の私の気分、私の理解に過ぎず。もっと私が成長して社会との関わりが強くなれば、もっと外向的なカードを増やすと思う。だから、分類そのものにはあまり意味がない。信じて鵜呑みにすることに意味はない。

意味があるのは、カードを分類することで自分がどの程度社会と関わりを持つことができているか、測ることができるという点だけ。

2010-07-28

理窟に意味なく (No reason but)

前から気になっていたギャグ漫画May 探偵プリコロ の 1, 2巻 を古本屋で入手できた。

読んでいてつくづく思う。うっかりタロットで当たってしまう現象、本当にこんな感じだ。理窟をいくらつけても現実を解き明かす度に裏切られ、ただ結果だけが出る。

本当に奇偶 を呼び寄せてしまう体質としかいえず、ある日突然に訪れる。

魔夜峰央氏といえば、代表作 パタリロ のなかに悪魔を登場させたり、その悪魔を主人公にした話を描いたり、あまつさえタロットカードのデッキすら作ったことがあるが。それは単にミーハーな感じの、読者層に合わせた風味に過ぎなかったと思う。

オカルト色をまったく排したこのギャグ漫画のほうが、オカルトの真髄を衝いている気がする。

2010-07-03

「視える」ってなに ? (What's Insurance )

去年の後半をミニブログに熱中し、多数の人と接するうちに 人が視えて困る という表現をするようになった。のめりこんで感情移入したり、見透かすようなことを無自覚にやってしまったり。

今年にはいり、同じく 視えて困る。目をそらすようにしているけれど という人に都合四人出会う。同じ 視える という表現でも感じ方はそれぞれ。でも同じことを言っているというのはなんとなく伝わる。

五つもケースが集まれば、その個々の視え方について考えれば、あるときふと共通点がわかる。自分が避けてきた、逃げてきた結果として人と衝突をしてきた 直観 とはなんなのかが。


おりしも一人目と出会い、最初の喧嘩をしたころに、公式日記に 調弦推理 という題で書いていた。

心に残る言葉、気になる出来事があったとき、人は何度も思い返す。引っかかる

何度か思い返すと、無自覚・未言語な領域に、いくつもの仮説が現れる。するとリアクションはいくつかの仮説に対応し、どれにでもうまく答になるようなものになる。

外界からさらに反応が返り、そこで仮説のいくつかが絞られる。だんだんに絞り込まれて、残ったものがある日ある時 認識 として降りてくる。

言語で説明されたものではない。思い込みかもしれない。だがそれは往々に正しかったりする。

これを 直観 と呼ぶのだろう。言語化した自分の認識に囚われず、いくつもの仮説を並行して脳内に思い描くこと。だから過ちもある。論理で説明できない仮説のひとつというだけなのだから。口にしたから、表明したからといって、他の可能性も脳内に棲息している。たまたま、最悪の可能性をふと思い浮かべてしまうだけ。

口にする、言語化することで、それぞれの仮説を絞り込むことができる。それが 直観を磨く・鍛える ということ。

言語化しないことはしんどい。哲学のほうでは もの、そのものが見えてしまう という表現をする。しんどさ、つらさに耐えきれず 治療してくれ と訴えかけると、それは精神病理のケースになる。だが、耐えること、乗り越えることはできる。

つねに不安定な世界観に晒されながら、耐えつづけること。それが直観。視えるということ。しんどいよ。だから人に勧めはしない。好奇心だけで力を得ようとする人をみると、いつも全力でとめる。

霊能マンガなんか読んでいる

古本屋で、 という漢字と、狐の画がかわいかったのに惹かれて買ったのが霊能者の事件簿と称する実録マンガだった。

フィクションとしてならば今まで何度か読んでいたが、実録を謳うそれは、今まで避けていた。なぜ素直に読めているのか顧みる。

解釈はひとつじゃないと思えるから、怖くない。結論はそこだ。

私は自分の問題は自分で解決できるだろうと思っている。世界中を救うことは望まず、自分と大事な人だけが大過なく生きられたら構わないから、それで構わない。だからすがる必要はない。

オカルトはノウハウだけが大切、個々の解釈は意味をなさない。物理の計器で検証不能なので、その裏にどんな解釈を加えても、間違っているともいえない。正しいとも言えない。

今回読んでいるのは、日本人が、先祖霊や事件の性質に応じた神社の援助を得て解決を導くはなし。

だが、世界に生きているそれぞれの民族が、いまも存続している。べつにどれか選んですがる必要はない、ということ。

私は単に、偶然を信じているのだろう。偶然の裏側に理屈を求めなくとも構わない。自分の過失の部分さえ自覚・反省することができれば、偶然を受け入れれば、そこに何やら霊の導きがあろうが、なかろうが、構うことはない。気にする必要はない。

うしろの人が相談して、ここに数珠を置き忘れさせて貸したんだよ と理屈をつけないといけない主人公たちが、わりと可哀想。

あまり気が進まないが、書名もメモっておく。妖狐狩り

2010-06-13

この二カ月あまり、mixi で

タロット札を考察の材料にするようになってそろそろ一年。

この2ヶ月あまり、アヤシイやつと思われるのもやむなし といろいろのことを、mixi のタロット関連の場所で言ってばかりいる。

偶然の導き ? 現状だか、予測だか、人の心だかが時に反映する ?

いまの私は そういうこともある と受け入れているし、予測のつもりで引いた札が読めないと嘆く人に、不吉なことを吹き込むアホが妙なこと言う前に、進んで答えている。

だが、そうじゃないんだよ。この札の遣いかたは。

偶然に頼ってでも道を決めたいと迷ったときに、陥っていそうないくつもの局面。こんなときもある。みんな越えてきた。でも先にはこんな未来が待っていて、展開するだろう という考察が、遊戯の札に託して積み重ねられただけ。


ちかごろ、友人相手にカードを見せても、偶然に頼らない。

どの画柄に心惹かれるかを聞き、そこに対応するだけ。


ま、この並びをどう解釈するか という質問は、単なる偶然ではなく、その並びに心惹かれ、考えたくなるような並びに対するもの。ある意味偶然に頼っていないとも言える。

2010-06-06

とても個人的な……

アヤシサを炸裂させてしまったときは、信じてもらえないのが一番気楽。

頼られるのが一番困るのだから。

直観も人間の能力のひとつ。いくら論理で磨いても間違いはあるし、そう自覚していないと気が狂うような脆くはかない能力。


気分が伝わる、これも同様。

誰にでもある共感の能力であれ、こちらでのシミュレート・演算であれ、超常の能力であれ、あるいは、シミュレートが狂って妄想であったとしても

問題はそれを受けて、どうアクションするか。よりよい結果が導かれるのは、どういう反応か。

共感した内容に従ったからといって、互いにベストとは限らない。ましてや、共感できているのが感情だけではないかと疑うことが可能ならば。

感情が共感するのにホイホイとしたがっていると、互いに怒りに包まれたときに破綻する。それは懲りた。

2010-05-31

凶角

京王線の上北沢から、南下して小田急に当たったところで電車に乗って梅ヶ丘に行こうと思った。

素直に道をたどると、桜上水から延びる 水道道路 に出る。一度道を外れようとしたが、また水道道路に当たり、好奇心もあって環状八号線に突き当たるまで歩いた。

家も、畑も、すべて斜めに横切られている道路だ。建物という建物が、無理にでも東西南北に向かおうとして、敷地に対して斜めに配置されている。

風景を見ながら歩いていると、自然に身体が、首が、左に傾く。

風水 という体系は論理を立てようとしすぎて的外れな部分が目につくが、この道をふだんから長くあるくようだと心身に悪いだろうと感じた。外に出て道路を歩くのがいやで、ひきこもる人もいるだろう。

体調が悪いいまの私だから、こうして歩くと敏感に感じる。環状八号線についたときには、身体を傾かせていたせいで肩が重く、あるいはこれで「霊にとりつかれた」「悪いものがつく」と言う人もいるだろうとも思った。

2010-05-15

久々に外した (Failure)

昨晩、久々に自分のことを引いて、筋の通らない並びを引き当てた。仕事の内容、いまの状況にしては、あまりに重いカードが出すぎだ。

約一年ぶりの現象に、偶然なんだから意味のとれない並びを引き当てることもあるさ とノートには書いたが、やはり気にかかる。去年の10ヶ月は筋の通る並びを引き当てる確率を出して理由を出そうとしたが、今日は筋の通らない並びを引く確率を計算しようとすら思った。

確率に意味を持たない現象だと既定・納得したわけだから、それは瞭かに間違い。

こんな文章を見つける。納得。

で、道場に行ったら、師範の先生が射つ場所はろうそくの明かりがあるのですけれども、的はぜんぜん見えません。真っ暗な中を先生が射つのです。しかし矢は見事に的に当たり、しかも次、二の矢を討ったら、それは一の矢の矢筈を割って刺さるのです。それをヘリゲルに見せて、先生が言うんです。

これは私が射ったのではありません。それ が射ったのです。それに二人で頭を下げましょうと。(略)

(大幅に略)

知っていたアメリカ人がいて、僕にKawai, 僕はオイゲル・ヘリングを読んで、ものすごく感激したけれど、実際にテレビでやったら、西洋のほうがよっぽどよう当たる。日本のなんか、ムチャクチャ離れたところにパーッ行ったりして。なんでああいうことが起こンねや と言うから、僕はこう言ったのです。

ああ、あれは、テレビに出ますと言ったときには、日本はもう負けています と。日本の弓術は、テレビでやるもんではありません。見世物にやろうと思ったときに、その人はもう負けているんです。見世物に勝とうと思っている人が、それ の力を借りたりはできません。自分で何とか当ててやろう と思うに違いないですよ。だから、テレビに出ようとしたというだけで、それはほんとうの日本の弓術ではありませんと言ったら、みんな なるほどな と感心していましたが、どこまでほんとかわかりません(笑)。でも、わかるでしょう。その辺りが非常に難しいんです。

心の扉を開く (河合隼雄 2006)

稀少な確率、信じがたい並びを引き当てる状態は、セルフが強くなった状態。エゴでは引き当てられない

2010-05-07

お奨めしません (I don't suggest you)

「もっと***勉強したくなりました」
「***で頑張ってほかの人を救えるようになりたい」


「カウンセリング」でも「占い」でも良いのだけれど。こういう方にはお奨めしたくないなぁ、と感じてしまう理由を考えてみた。

山に登らないといけないときには、地図を使う。でも未踏の山の地図が正しいかなんて、登ってみないとわからない。

金なり、好意なりで、ガイドが雇えることもある。でもシェルパだって毎日山に登っているわけじゃない。季節によっても路は違うだろう。山崩れで地形が変わっていることもある。

ガイドがいて、山も始めの方で、「地図が読めてガイドができると人が援けられるのですね。私も他の人を……」

何回、いくつ、山を登っても。事故は起きます。そして (あてになるか、ならないか分からない) 地図の読み方がわかっても、二本の脚で山を登り、無事に降りてくる苦労は減った気がしません。

そんな感じかな……

納得のいく喩えを思いつき、書いてみたら。終わるまで言うのを待てば良かったかと反省した

2010-05-03

狂気とか ( Out of Common Sense )

子供の頃に、自ら斥けた 幻視・幻聴能力 (人類の 5% 、血液型 AB の半分くらいにはありふれているらしい) を受け入れて、もうすぐ一年。幻視を現実と混同せずに認識し、現実と関連することもある ことを把握し、またべつの能力を持つ人とも出会い。

いまの認識として、人それぞれ別の能力を持っていると思う。多寡だけでなく、質も。

常識 = Common Sense は、本当に共通(Common) にして最低限。多数の人間に通じることばに過ぎない。世間に対しては Common Sense だが、個々人にとっては Basic Sense なのだろう。その先の、教科書のない部分をどう扱うかが、個性であり、人生なのだと。

この先、ものの本に載っていないどんな出来事が自分にあっても驚きはしない。また、人が持つ能力である以上、どんな確信があっても間違いは起きることも自覚しつづける。

どう生きても、個々の人生。能力を封印しつづけて、たまにいきなり、洗練されていないかたちで発揮してしまい畏れるよりも、認識して把握して、洗練して、それでもなおかつ他人に通じないことばであることを自覚して、語る相手は選ぶ。そのほうが、きっと世間的にも成功に近い。

いまさら、あと二十年を目一杯に成功してもしれているけれどね。

2010-04-24

偶然に遇う才能 (ability of meet)

再録

Q. タロットの数札の意味が憶えられません

A. 自分について引いたカードをメモっていて、あとで検証して当たっていれば印象深くなって自然に頭に入ります。

Q. 当たらなかったら?

A. いつも認識にそぐわないカードしか引けないなら、意味を憶えても仕方がありません。そんなときは蔵っておいて、また思い出して触りたくなるまで寝かせましょう。

素直に答えたら、傲慢ともいえる答になってしまった。だが、すべて体験と実感。

当たるってなに ?

当たる・当たらないという言葉には意味がない。認識にそぐわない札と、そうも考えられる札があるだけだ。

筋の通った解釈ができてしまう札を引くようになっていたから、改めてタロットをやりだした。直勘が暴走するようになったから、自覚して直勘による推測は自分の解釈、見えている範囲でふつうに解ることはここまで、と隔離するために夢やタロー札の向こうに押しやったと表現することもある。

当たらない札しか引かないで済めば幸せだと思うが、当たる = 納得する札を引くならばそれを無視しないほうが良いとも思う。無自覚の認識は、把握しておかないと容易に思い込みとして人を誤らせる。

当たる札を引く?

どういう時に人は「当たる」札を引いてしまうのか。やりたいこと・やるべきことと、それは違うという気持ちが入り雑じり、判断に迷うときが一番多いだろう。

つまり、自分の気持ち(=直観)の根拠がわからないときにカードを引くと時に直観を理解できる札を引き当てるということだ。他の札だとして、別の説明で納得し得たのか、それもまた正しいと言えたのか。その話は措く。

「偶然」に遭う

街を散歩し、知らない道や自然の変化が顕わな景色を見るのが好きだ。無自覚に思考に影響を与えていた外部の要因や、未言語の思考を意識させてくれる風景に、よく出遇える。意識のもち方ひとつで。

東京には寺社がたくさんある。目的地を決め、方角だけを把握して気儘に歩いていると。すぐに寺社に遇う。

由来を読み、祀られる神やヒトの名前を知り、その神話・民俗学的なイメージに想いを馳せれば、たいがい今考えている事柄、悩んでいる内容のヒントになる。私には今そういう、道に迷う才能もある。神話や民俗学への知識・理解を背景として。

たぶん同じ能力。札のほうが持ち運び・取り扱いが楽だが、しょせん正逆の位置を考慮に入れても156通りの意味・印象しか示さない。解釈は曖昧で、人により状況によって違っても仕方がない。

2010-04-19

ようこそ (Welcome to Tarot Journey)

一昨日と逆に、今日はこんな文章を書いた。「面白そうなのでタロットカードはじめてみたいと考えています。今日はじめて占い師さんに鑑定してもらったら疲れたのですが、こういうものですか ?」という記事に応えて。

話題に対応できたのか、単に私の気分の問題か、それは判らない。間違いという気はしていない。現実の相手・状況に対応できているかどうかとはべつに、これもまた私の引き出し。

タロットカードを題材・媒介にするかどうかではなく、占い師さんとの相性や場の雰囲気が重要ではないかと思います

ふつうに話しても重い話題を、30分なり一時間、対面の一対一で話したら疲れますよね。

商業の占い師さんは、つらくならないように気を使われると思います。さらにベテランになって、重い話題をどうしても相談者自身に向き合ってもらいたければ、疲れさせるのもやむを得ないと感じて普段と違うやり方をなさるでしょう。

重い話題、人生の問題に向き合えば。進展があるほど手応えも重いですよね。

対面の相手に任せきらず、自分で問題に向き合おうとタロットの世界に惹かれたのでしたら、ようこそ。

英語圏のかたはよく Tarot Journey と表現されます。現実の世界・心の世界。ふたつの旅を楽しみましょう。

現実・日常の問題から逃げるための精神世界は要らない

2010-04-18

女教皇 -Sacerdotisa-

トランプ2番。

足して20の対応、対処しないと悪いことが起きかねない不安・心の影 = [18:月]との対比で、未発達の心の機能からの影響かな…… と2,3日考えていた

[感覚-直観],[論理-感情]の、私でいえば感覚や感情の影響ね。訓練していないと無自覚で暴走する。怖い、怖い。

そのあとに話題が挙がったり、昨日の [健康な人が近づく必要がない] て主題のあと、さらに考える。

一般の、健康に日常が送れている人は無理にすべての心機能を発達させようともがくことはない。

危機に陥って、全力で立ち向かわないといけないとき。今までの遣り方で日常を送るのが無理で変わらないといけないときに自省するのは良いだろう。

だが健康に日常が送れているときに態々、毛を吹いて傷(瑕疵)を求めることはない。


「神経症の患者は社会のアンテナ」てことばを思い出した。一部の、うっかり踏み込んでしまった人だけが社会の危機に向き合い、食い止めれば良い。

どうせ社会の動向に合わせて一定数は発生するのが巫女、生贄の王、Gazer だ。

健康になろうとしている人の、状況を探ろうとしての示唆にこの札が出たら。総合の判断で周りに迷惑がなかったら、そっとしておいてあげたら良い。ヒキに自信があればね。

2010-04-17

昼間にいる人を巻き込むな

公開の場所にて

ある方ペットを引き取るときに、前の飼い主さんからタロットを一枚引くように言われ、xxxを引きました。喜ばれて家族が増えましたが、xxx という札の意味を教えてください

xxxにはoooの意味があります

ある方なるほど、すごい。はじめてタロット触りましたが、引き込まれる気がしました。勉強していきたいと思います

慌ててメールを書いた。

たまたま私は神経を病みかけたときに、三十年近く昔に子供の好奇心で勉強していた札のお陰で日常生活ができる程度に回復しましたが。

正常に生活できている方が、無理に近づくものではありません。

巻き込まれてカードを引かされたら、たまたま元の飼い主さんが安心するカードを引いたからペットがやってきた。それで良いではありませんか。

すでに神経を病んでいる人が、鈍らせずに極端に研ぎ澄ますことで心の危機を乗り越えるための道具。

正常に生活ができている人が、神経を必要以上に尖らせることに意味はありません。

自分が、この元の飼い主さんと似たことをしていないか顧みよう。何度でも。

月と影

トランプ18番、月
心の影

闇がすべてを覆わんとするときに
影だけが薄明を失わず
盲いた人を救うだろう

2010-04-13

夢日記 (Good by Dalls house )

去年の五月頃から、手応えを重いと感じる夢を視るようになった。

この日記、Paradox of night by ImageGazer , 占いやオカルトの話は隔離してひっそり、だが著者を隠さずに書こうと決めてからしばらく、それらしき題材もなく停滞していたら。ひょんなきっかけから夢の話を掘り起こして書くことになって一気に進んだ。

あれから重い夢をいくつ視ただろうか。

重たいが個人的、私の周りの人々に近しすぎる内容で、書くのを控えたものもあった。忘れても良いくらい軽いから忘れる、と起きて決めたものもあった。これは憶えておくべきではないから忘れよう、と夢の中で決めた内容も、起きてから感じたものもあった。

今回は特殊。目が覚める直前の夢の中、考え事をしていたら背景が blogger.com の画面になって、すべてが平面となって張り付いたような感覚で、そのまま立体に取り残されて、夢が終わった。なんだか分からないけれど、ここに公開することに意味があるのだろう。

なにか一年がかりの大きな出来事が、次の局面を迎えようとしている気がする。実占だけでなく夢の記録も、ここに発表するのは最後かもしれない。

相棒

地下街を巡る冒険が終わろうとしている。ゲームのマップのように、連なる広大な部屋の方向感覚を上下・左右で意識している。隣には、男のパートナがいた。

ここに何度か夢の話を書き、旅を意識させるものには少なからず女性のパートナが隣にいた。実在の女性を求めろという意味か、夢の中の表象・心の機能という意味か悩んだ女性。手応えや右隣を歩く感覚でしか捉えられないフェアリィのような女性が。

男性のパートナのいる夢をみたのは初めてだ。靴磨きの組織の重要な役割らしい。この男の仕事の調査と、私が乗るべき地下鉄の駅に向かうのが一致したから、ともに行動してきた。この男とともに、語るべきでない冒険を今回もした。地下を辿りつづけ、私の乗るべき駅の商店街にはいったら、彼とは別れるだろう。また行動を共にするかもしれないが。

永遠の女性パートナと共に夢のけもの = 活力ある賢者 = フィレモン = アニムスと称されるものに会いにいく夢は何度か書いた。フィレモンのほうが同行して、ともに冒険に巻き込まれ、領域を統べる女性たちと別離を告げる夢。

人形の家

記憶を持ち帰れない深い領域、数々の部屋を巡り終え。最後にもう一度、六間で構成される人形の家 の部分を通らないと外に出ることはできない。上下に二、左右に三の部屋で構成される、飾り物で役に立たない家具に飾られた豪華な見掛けの領域を、左下から、右上に。

まず左から右へふた間移動する。真ん中の部屋は、上の部屋からドアのない通路を経て丸見えだ。通ると決める。

パートナから 何やってんだよ と批難された。もうひとつ下の部屋、深い領域を通れば見つからないのに、これでは上を経て公衆に丸見えだ。バリケードに立てた大きな樹のテーブルの陰を通ったとはいえ。

だが無事に右上の部屋につき、右中央の 人形の家 応接間からあいさつにきた女主人の後ろに、監視カメラのモニタがみえて自分が正しかったことをしる。人形の家 を構築し、女主人をここに縛りつけている恐ろしい存在に見つかっていたら大変なのだから。

ここから右の部屋にいけば領域からお別れ。最後に、上に突き出した離れの領域の住人に別れを告げよう。

女たち

離れの右下にあたる部屋から入る。上の部屋と区切るふすまを開けると。三人姉妹の次女が出てきた。

この三人姉妹、長女と 人形の家 の女主人が同一なのか、はっきりとはわからない。

次女は言った。

最初にここでお会いしたときには、殿方が怖くて、嫌いで逃げました。今回は好意をもったから、羞ずかしくておいとまします。

うれしい言葉だが、社交辞令かもしれない。追求しても意味はない。次女は、右下の部屋にある階段を上がって去っていった。

左下の部屋では、ふたりが炬燵にあたっている。ひとりは、三姉妹の従妹にあたる、ふたり姉妹の片割れ。もう一人がよくわからない。姉妹のもう片割れだと思うのだが……

このふたり姉妹と、月の夜に高校のような建物の屋上からハングライダで飛び出したな、とかすかに冒険の記憶、情景が思い浮かぶ。

あいさつを喋っている少女を、ブラの肩紐がブラウス越しにみえるのを意識しながら、どぎまぎせず、過剰にさけず、いままでそんなことができると思わなかったハグをした。

二回目の拒否のことばのさいちゅうに、彼女の右手をとり、甲に騎士の口付けをした。

いやだと三回いわないとツンデレじゃないんでしょう ということばに目をあげると、彼女の目には涙が浮かんでいた。

どんな冒険をしたのだったか考え、この部屋のもう一人をみきわめようとしたときに、背景が blogspot の壁紙になった。

2010-04-09

もう実占記録は上げない

さすがに78の三乗分の一なんて確率を引くと、畏れと狂信を排したあとに残るものは恥。

いつか、誰かが「500,000分の一程度の確率くらいで誇るなよ。ヒキの弱いやつだ」と言ってくれないかな。

2010-04-07

いかがわしく聞こえる言葉について ( murky words) -1-

承前

昨日づけで書いたつもりのざれごと二部が、書いているあいだに日付変わって本日四月七日になってしまい。今日もカード引いた記録と、このネタ書いてしまうと。表に4つも記事が並んでしまう。量が多すぎるのもどうかと思うが、あきらめよう。

ちかごろおぼつかない英語で副題書いているのは、URL にタイトルが入って、あとでわかりやすいからです。

長めの記事につけた小見出しに、html タグの id をつけているのは参照用のつもりで始めたが、体系の違う言語で内容を再確認するのは文章の書き方として悪くない。

シンクロニティ

共時性 と訳される。ユング自身ですら理解されまいと晩年まで公表を躊躇い、日本にユング心理学を持ち込んだ河合隼雄氏も三十年伏せた概念。

カクテルパーティ効果で説明できる部分もある。人間の心の動き、認識として、今までなら意識できなかったものを認識できるようになるものもある。(このふたつ、微妙に違う)

似たようなことを見聞していたひとが多数いると、しばらく接しないでも同じようなことを考えている人が発生する。思考の並行進化 と私は説明する。同じ文化の中、同じ時代に生きているだけで、よく似たことを同時期に考えつく。共感するものがある。これもシンクロニティに含むことがある。

タローカードや易も、よくシンクロニティと言われる。

似たような原因がそれぞれ並行で別の事象に働きかけると、細部で見ると異なっていても、大まかな視点でみると大体同じことになる。量子力学あたりでよく話題になる。あるいはフラクタル。大まかにみると似た模様になる。その辺りがタローや易の卦に通底しそうな気がするが、これは私の勘。まだ論理の道筋は経っていない。

さて、シンクロニティと聞くと、なぜ人は殊更にアヤシク、いかがわしく感じるのか。逆に熱狂してロマンを感じる人がいるのか。ひとつ仮説を思いついた。

共感魔術 (Sympathetic magic) が洋の東西を問わず、伝承としてあるからだ。わかりやすい例で、丑の刻参り。人に似せた形の物質に破損を加えると、人にも危害が及ぶという伝承。

同期(シンクロ) しているならば、その片方に影響を与えることで、もう一方に影響を与えることができるだろうという発想。適用できる例も多い。だが、別の概念と考えるべきではないかな。

似たような原因がマクロで見て似た事象を起こす、これはありそうだ。だが、人為で別の影響を与え、もう片方にも影響が及ぶはずがない。

シンクロニティと共感魔術は別の概念。アヤシイと毛嫌いして遠ざける人の大部分が混同しているのではないかと、先日思った。

集合無意識

上でちらりと書いたが、同じ文化・同じ時代に育てば、似たようなことを考えるひとは多数発生する。

汎用の内容ならば、誰もが考える。考えることがなければ、人と人が分かり合った気持ちになれるわけがない。

心という実体のない概念で、同じインプットを受けて同じアウトプットをする部分を取り出す。それを共有していると解釈するか、同じ働きの回路を各自べつべつに持っていると解釈するか。

どっちだって良いじゃないか。人と人とは、時代が近く、育った文化が近ければ近いほど、高確率で似たことを感じ、考える。それだけの話。

解釈・仮説は、思考操作を楽にするための道具に過ぎない。

実占 2010-04-07

お仕事の関係。トラブりかけたのを、なんとか電話とそのあとのメールの遣り取りで収めたと思ったあと。ふとどんなカードを引き当てるか気になった。

テーマは 今日の私の対応、今までよりは柔軟に対応できたつもりだが、どう評価する ?

どう評価する、と念じながら
King of Wand Reverse : ふむ、まだ高圧的ですか
覆うもの、横切るもの
Wands 8 : 性急かね
根底に流れるのは
Wands 3 : まだ傍観している
表に現れるのは
Wands 2 Reverse: 傍観している
過去をどう捉えている ?
King of Pentacle Reverse : 意固地な支配者
未来をどう捉えている ?
King of Swords : (言語化省略)
自己イメージは
T1:Magician Reverse
傍から見ると ?
Swords 8 Reverse
これからの留意点
Pentacles 7 Reverse
至れるであろう道は
T7:Chariot Reverse

当たる、外れるは検証不能。自分の不安をよく映し、留意すべき点、留意すれば至れるであろう理想像までみごとに筋の通った並びを引き当てた。

余談だが、三日ほど珍しくカードをきちんと整列しなおして持ち歩いていた。意図は 自分の意志で、自分の望む心の状態を選べますように という願いをこめた心の誓い。

よって、今日は混ぜながら一枚選び、まだ混ぜるという方式を繰り返していた。つまりスートの偏りに、シャッフルが足りないという偶然は介在していない。

ざれごと 2. -Suit Card-

剣 = 風 = ロジック

剣3 が怖くない、という話を前に書いた。あまりに情緒的になりすぎた心は、理性で刻むことによって互いに磨かれる。

ふと今日、剣のカードの2〜9、ほとんど全て水が描かれていると思った。ウェイトがデザインしてパメラが描いた画で考えて。

河は無意識からのエネルギー とはよく言われる。剣2 と 剣8 、最大の違いは背後の広大な海と、ぬかるんだ地面だろう。8に至って水が欠如し、地面 = 現実生活とのあいだがごちゃごちゃになった状態、易でいう かと思った。(易について調べ直していないので、これは勇み足かもしれない。)

水が描かれていないのは、4, 7 , 9 。4 と 9 は寝台の上にいて、夢 = 無意識の近くだから、これも水があると考えてよいだろう。

ところで、剣3 , 剣10 において、目を奪われる心臓や死体ではなく剣を主役と考えると、7 に於ける主役はどちらなのだろうね。

盃 = 水

直観 ( Wand ) を起点に考える人々が、最後に優しさ ( Cups ) を得るまでのものがたりではないかと空想したことがある。

いまごろになって、盃 = 水がもっとも尊いと西洋人が感じる理由に気づく。最初に形なく水面を漂えり。光あれとのたまった だ。彼らの感性・文化では、霊性は水と共にあると決まっている。

日本語で十字を切るとき (額)主と (臍)子と (左肩)聖霊の (右肩)御名において と切るよね。霊-マテリアル-パトス-ロゴス と対応させているようにも見える。では、英語では ?

動画をしらべた。(宙空)In the name of (額)the father, (臍)the son, (左肩)and the holy (右肩)spirit か。一致した

7 の冒険

金貨/Disk や 棒が次にくるほど、私の思索は完成しちゃいない。

十字を切る順番が 水-地-火-風 かと思ったとき、ちかごろよく見るカード 7 がひとつの物語になった。

もともと、剣7 はプロメテウスが火を盗んだ話。あるいはグリム童話で名付け親のところから命からがら逃げ出した話などを連想させるとは思っていた。

盃7。宝にも蛇にも目をくれず、直視してはいけないが、その光だけで囚われる宿命に出会ってしまった人。

プロメテウスなり、深淵/黄泉の国から宝を持ち帰るイザナミ、オルフェを共通のはなしとみなせば、棒7 は イザナミの投げた櫛の歯や桃 , 三枚のおふだ と見えないだろうか。見えない ? 私の妄想かもね。

ざれごと 1. -Dream of Hermit-

数秘学なんてない

数秘学なんてない。今の日本なら、早熟な小学生でも数のおもしろい性質を知り単独で楽しむことは可能だ。

私が小学生の頃、クラス40人弱に、少なくとも私含めて四人がマーチン・ガードナのパズル・書籍を楽しんでいた

だが、数の性質に、その頃の常識をベースに日常から考察した内容を当てはめて楽しんでいた知性、それを聞いて楽しんでいた文化は存在するだろう。時間経過に淘汰された考察 = 智慧が読み取れるという価値はある。

昭和の日本人なら逆に語呂合わせで、「ヒトヨヒトヨニヒトミゴロ」(1.41421356 = √2 ) を憶えた。方向は逆だが、同じこと。

なぜ当たり前のことをわざわざ書くのか、といえば。カードの採番におもしろい意図を発見したからだ。

タロー札に出会ってから三十年強が過ぎているから、遅いともいえる。まじめに考察をはじめて一年も経っていないから早いと誇れるのかもしれない。

足して20

[トランプ17:星] はアニマに喩えられるけれど、アニムスはどこさろう。ユング自身ですら豊富な臨床例の中に現れる多くの像の共通項が掴めないと悩んでいるアニムスはと 考えていた ときに気づいた。T11番からT19番は、日常社会で抑圧されがちな心の動きではないかと。

詩的な言い方、タロット・ジャーニーのことばでいえば 山に篭もって自分をみつめ直している隠者の夢 だ。いや、例によって、先にこの言葉のほうを思いついたわけだが。

しかし [T19:太陽] は自由で、自分の内面の昏さを認め外に出さないことを選択した、無垢な存在と解釈したよな。あれは日常の世界に通用する心の動きだろう、と思った次に気づいた。

そうか、自分の表裏を識った上で、世間に合わせるための嘘も平気でつけるような無垢な個性は、現実世界で外から見ると イカサマ師 だ。T1か。

元々、T17 をアニマと観て、対する現実の性的な魅力をもつ女性は T3 に象されるというところから考えはじめた思索。たちまち、T5-T15 , T2-T18 の共通に気づいた。

[T4皇帝] の心性、行きすぎると [T16] の雷にも、また破壊される権力にもなる。

[T7戦車] に蹂躙されるがわの情景が [T13死] という考え、散文的だが整合するよね ? そして人の心、実際日常を大過なくエネルギッシュに動いているときに、裏で抑圧されるものがあり、次のステップに進むために終わらされるものがある。

すると T8 , T11 はマルセイユナンバーでないと、T12 , T9 に対応しない。

これも考えればわかる。十八世紀にはいり、直観が抑圧されるようになった反動で、当時の直観優位者が 昔は良かった という思いが錬金の体系に心のあり方を投影したとは前に考察した。その頃ならば、純粋な正義、裁く心はブルジョア社会で付き合いにくい奴と蔑まれ、抑圧されはじめただろう。占星の体系の天秤、獅子への対応だけでなく、自らの目的なく発達させた力を抑える象意のほうが日常向けだと入れ替えた、とも解釈可能だ。

例によって真偽は検証不能。ただ、そう考えるときれいにまとまるね、というだけの話。どっとはらい。

2010-04-05

馴れ合い文化 ( system , not culture )

馴れ合いで夜の闇のことばを語るなよ。

慰めがほしかったら、昼の宗教に頼れよ。

夜の言葉は、怖い言葉。自分も他人も切り刻む言葉。

傷つけられたと騒ぎ憤るような人が近寄るところではない。

twitter 検索 : #spiritualJP を見ての違和感・不快感と同じものを、さきほどためしに #Jung で検索したら英語の記事にも発見した。

日本だけの話のはずがないだろうとは薄々思っていたが、ユングの名前のほうが、日本語のスピリチュアルと同様の扱いを受けているとは盲点だった。まさにニューエイジの礎となったことを思い返せば不思議ではないのだけれど。


Q: 昼の宗教は社会に適応するため。夜のことばは、自分を突き詰めるため。と言うけれど。では昼の社会に適応できないとき、安らぐためにはどこに逃げたらよいの ?

A: そんな逃げ場所はない。

逃げたいだけで、思索をしない人間という存在。実在の人間として会って話したことはない。そんなもの議論に勝つための仮定じゃないか ?

2010-04-04

アヤシイ体系、アヤシクナイ体系 ( why need mysterious knowledge ? )

無自覚に使って他者を混乱させる = 暴走を防ぐためにオカルトという体系がある。密教という体系がある。

2010-03-31 / 拙文

多少の意図を込めたとはいえ、よくぞアヤシイ体系ばかり並べたものだ。

ほかにいくつかの体系を心に挙げようとして、山岳信仰はアリ、森田療法は違う。でもなぜ森田療法を含める気にならないのだろう、と引っかかっていた。

そののち、図書館で 宗教の闇 (宗教への問い) という本に遭い、ぱらぱらと流し読みして疑問が解けた。

小乗仏教も、その流れを引く密教も、十八世紀に人の心を扱う体系として再解釈/再構築された錬金術も、自己の内側を見つめることに主な目的をおく。

逆に、旧約聖書、ユダヤの民が放浪する団体生活で生き残るための約束事を十誡にまとめたところからまとめられた律法を基盤におくキリスト教は、社会を円満に動かすためのノウハウから始まっている。森田療法も、個人を社会に融和させるための体系。

自己の内側をみつめ、そこから社会に還ってくることができず、むしろ社会から構成員を引き抜き同類に引き込もうとするようになると カルト と呼ばれる存在になる。だが社会に還ってくるという目的に目を奪われては、未言語の部分が自分のなかにあると認めることはできない。

必然、自己の内側をみつめる道はアヤシイ目で見られることになる。ムツカシイね。

すでに社会と自分との齟齬を感じていて、このままだとアヤシクなってしまう人が、アヤシイ体系で底までいって還ってこようとしているのだと認知してもらえたら良いのではないかな。

西遊記 に記載される昔の中国は、社会に融和するための仏教、自己をみつめる手援けをするための道教のふたつが並立していて、互いに尊敬を払っていたが。現実には当時の中國とて、そう円満だったわけではないだろうと思うんだ。

2010-04-03

スピリチュアルについて補足 ( What About *Real* Spiritualism )

日本語でスピリチュアルのレッテルを貼られたくない理由を先日書いたので、今度は本来の意味でのスピリチュアリストでもないが、アンチでもないという話を書く。

江原という人の存在を知らなかったとき、なぜ近ごろスピリチュアルなる単語を良く見かけるのかと、まず定義から調べた。

スピリチュアリズム/スピリチュアリストの正式な定義は、少なくとも以下の条件を満たしていることだという。

  • 人間以上の超意識の存在を信じること
  • 死後に残る人間の個性と交信可能だと信じること

三浦清宏「近代スピリチュアリズムの歴史」(ISBN978-4-06-214675-3)より

私は信じる必要もない、否定する必要もない

思い過ごしだとしても、それは少なくとも自分の願望による深読み。ならば自分の意志として、叶えてあげたければ動けば良い。相手が生者だろうが、死者だろうが、超越の存在だろうが。

それだけ。当人の意志だと思えば、プロセスは不可知で構わない。

錯覚 , 実在を信じる、どちらを仮定しても他人に対する接し方も、生き方も変わらない。

三十年ほど前、教会で洗礼を受けたいと申し出るか考えてから、折にふれ機会にふれ自分に問うて確かめている。

間違いなく、なにも変わらない。

2010-03-31

占星の時代 (Astrology Age)

begin

ユダヤに伝わる話に、こんなものがあるという。

王とラビは友人だった。が、ユダヤ人を公式に擁護できない王は、ユダヤの民の指導者であるラビと大まっぴらに話すことができなかった。

あるとき、王は手紙を託した使者をラビに送った。相談がある。王位についている間にやりたいことが二つ。一つは貿易の自由化。もうひとつはかわいい息子に王位を継がせること。だが、政治の力学から、王である私ですら為しうる大きな決断・政策は、あと一つが限界だと思える。どちらを優先すべきだと思う ?

ラビから王に手紙をしたためるワケにはいかない。証拠が政敵の手に渡らないとも限らない。使者は手ぶらで帰り、伝言も託されなかった。

王は問うた。ラビは私の手紙を読んだあと、何をしたのか、と。

あの異教徒は読み終わると返事もせずに家に入り、出てきたときには自分の子供を連れていました。自分は口もきかず、子供を肩車すると、肩の上で子供がさよならの挨拶をして追い返されたのです。(なんて無礼なやつ)

しばらくして王は退位。意中の息子が後を継ぎ、新王が貿易を自由化したという。

main

占星術もこれに似ているのではないか、と先日思った。

宮廷お抱えになったというのに、まだこんな下町にきて、占星研究家どうしの付き合いをしてくれるのか。ありがたいねぇ。うん、いつもご馳走になります

……そうだねぇ。最近は西からきたジプシーが、こんな説を教えてくれたよ。火星が天蝎宮に入るとき、力を増すに違いない

それは面白いな。どこから西のどの辺りから来たって ?

さぁ、あいつら適当だから。森の向こうの A**** 城下あたりは通ってきたようだが

( A*** の向こうでサソリの紋章をもつといえば、C*** だな。あそこのお抱え占星学者 D*** は優秀だ。もっともらしい学説を作るのはお手のものだろう。さて、火星がその位置に入るのはいつかな。帰って調べねば)

このあと、別の学説をたてて政略結婚の意図があることが街の噂を経て D*** に伝わり、D*** がそれとなく城主の息子を誘導して色気づかせ、時間稼ぎをする。

何度かのやりとりの結果、戦火はなく民衆も幸せに暮らし、貴族や兵隊も戦争で疲弊せずに済んだ。

なんてね。星で時期を示し、学説・解釈という形でメッセージを送れば、王に助言する占星学者のあいだで密かなメッセージが送れ、水面下で交渉も和平もなっただろうという想像だ。あるいは、交渉ではなくスパイと主だったかもしれない。暗喩による暗号。

end

それは占星学、占星術に失礼だ、冒涜だ。真摯な学者が解釈を恣意で歪めるはずがない、て ?

曲学阿世は曲世阿学よりマシだ。本当に大切な自分の仕事がなにか分かっていれば、宮廷お付きの占星学者・兼・相談役が、ほかに採る道はないだろう。それ位に目端が利かなくて、お抱えの地位にも上がれないだろう。

スピリチュアリストと呼ばないで (Don't call me Eharanism)

発端

twitter で、spilitus という名前のリストにフォローされた。

日本で スピリチュアルの人 と言われると違和感がある。

前はそうでもなかった。ちかごろ調べて、江原なにがしという人の運営する日本スピリチュアル・ヒーラー協会のシンパを指す日本語になっているとわかって、俺は違うと言い出した。

なぜ違和感があるのか、嫌悪があるのかを半日考え、すっきりしたので意見表明としてまとめる。

日本のスピリチュアルと私の方向は正反対

ジョゼフ =ポジティブ= マーフィーカーネギー江原なにがし。

スピリチュアル の日本で流布した形は、コトダマ信仰に半ば同化されている。

悪い事が起きると言ったり、思ったりすると悪い事が起きるから、言ったらダメなんです

こういうことを考えてはいけない。考えないようにしなくては。そんな考えが心に浮かびかけても錯覚だから、無視しなくちゃ。考えないようにしなくちゃ。

マーフィとカーネギーに支配されて傾倒して、事業の引き際を失い破産した知り合いがいる。

コトダマ信仰マーフィー派、コトダマ信仰スピリチュアル派の教義は、不安やネガティヴイメージを突き詰めて考えないこと。

私がやっているのは、自分の中の不安や違和感を解明して、受け入れたり対処したりする道。日本語でスピリチュアリストと呼ばれたら困ってしまう。

悪いことが起きるというと悪い事が起きるんじゃないよ。

悪い事が起きそうな違和感を人間はしばしば感じるんだよ。

なぜ悪い結果が起きそうな気がするのか、理由を突き詰めて考え、対処しなかったら、悪い事が往々に起きるんだよ。

スピリチュアリスト はオーラの見方を人に説く

近ごろコーヒーがペーパードリップでも美味しく淹れられるようになった。豆の粉がお湯の中でどう動いているかがイメージできるようになったからだ。

料理の達人は言う。鍋の中の肉の様子が視えるんですよ

コンディションが向けば、私も子供の頃から鍋の中の様子が 視え た。常時視えるわけでもなかったし、視えた途中経過と、できた料理の味を較べて検証し、次に料理を作るときにどう工夫するか鍛錬しなかったから、料理は上達しなかった。

さて、プロの料理人は料理教室の生徒に向かって あなたにも鍋の中の様子がイメージできるようになりますよ。最初は蓋をしたヤカンの中の水の状態を想像して…… と説くだろうか。

人に押し付けるのは、自分だけ能力を持つのが不安だから

タロッティスト、オカルティストと呼ばれるのは、力不足で面はゆいが構わない。タロットを考察の材料・道具にすることが多いのは事実だし、西洋オカルト = 錬金術 (の十九世紀再解釈) の中には経験知があるだろうと読んでいる。

オカルトの体系は信頼していない。体系化した人々に、自分と似た心の形をみて、同類として分類しているだけだ。

直観の洞察が社会で理解されない、だが往々にして正しいために、直観こそが天啓であり唯一無二、無謬の能力として崇拝したのが十九世紀オカルティスト、と今は捉えている。

日本のスピリチュアリストの何人かは、オーラ視や別の感覚を誇るかもしれない。絶対であり正しいというかもしれない。みな学んでほしいというかもしれない。

直観の洞察と同様、正しいことは多いが、他人に方法論を押し付けるものでもない。 得てしまった能力を、社会に融和するように使うだけだ。

無自覚に使って他者を混乱させる = 暴走を防ぐためにオカルトという体系がある。密教という体系がある。本当に能力のある人は、師につかずとも本を読めば必要なことを学べる。暴走に困っていないひとが無理に学ぶ体系でもない。

礼なんて、よしとくれ。これは贈り物じゃない。呪いだよ!

小説アルケミストより

2010-03-30

月のきれいな夜に (Blue Moon)

1.

バスの中で、ふと引いた4枚のうちに [18:月] が出た。

ほかの3枚はだいたい認識に合致する。この [18:月] だけがわからなかった。不適切というのではない。今まで [18:月] がぴんとくるような状況に遭ったことがない = カードの意味そのものが掴みきれなかったのだ。

よく不安の意味とされる。前に引いて印象深かったのが、友人SE の手伝いで仕事をしようとしていたとき。二匹の犬が同じ目的にむかって、成功するかどうか不安がりながら向かっている と解釈しようとした。仕事は私がリタイアして、プロジェクトが成功したかどうかわからない。

トランプは心の危機や原型ではないかと考えだしたのはそのあと。年末に [19:太陽] の意味をさまざまに考え、そのあと実現してやっと [0:愚者] との違いが腑に落ちた。

[17:星] をなぜ たましい=アニマ とするのか。するとアニムスはどこにいるのか、と散歩のついでに考えていたのが昨日。これも考えに決着がついた。そのタイミングで出た [18:月] だ。

2.

いや、mixi で トランプ22枚で恋人のことを念頭にカードを引き、出たカードが[15:悪魔]逆でした。浮気されていますか , 浮気なら [18:月] じゃないの という問答を見かけたのも気になっていたんだな。

では他に 浮気 を示しそうなカードがあるだろうか。たしかに76枚、正逆両方の位置で思い当たるものがない。だが、これは私がカードに顕れるとしたら心の動き、現実は映さないと思っているせいだろうと結論づけた。

浮気って原因でもなければ、対人で問題でもないだろう。本人と相手の間にあって、浮気という現象が問題になるのは心変わり , 約束を破られる , 信頼ができなくなる であって、現象としてすでに別の異性と関係をもったかどうかなんて、大事なことじゃない。

そして、もちろんどれも [18:月] の象意とは思えない。

3.

水面に映る月、水より這い出る甲殻類。だいたいの結論が出たころに帰り着いた。

浮気 解釈がどれだけ伝統的なものなのか気になっていたので、いくつかの書籍やサイトを確認した。

日常生活のなかに、望みもしない (望んだことを意識していない) 未言語からの認識や欲望が影を差すと、まぁ不安ではあるよね。でもそれは次につながる契機。

たしかに恋愛に夢中の人について、本人についてカード引いて [18:月] が出たら、あなた、なにか疑いをもっていませんか と訊く価値はあるし、それは本人が薄々感じていたパートナの浮気かもしれない。結果としてはね。

私の仕事の話では、ふたりで要件定義ができたと思っていたが、見落としがあることを無自覚に感じて、引っかかって私が書類をかけなかった。まさに [18:月] が自分の状態を映していた。(そういえば、なぜあの時に限って 自分の心の状態がこう移行しかけている ではなく、現実の未来、進捗をみようとしたのだ ? だから読み違えたのだろう。)

おりしも、今月二回目の満月、いわゆるブルームーンだ。黄色い円盤が重くのしかかる、そんな夜だった。

直観 (intuiting) と直観的思考

直観 は勝手に降りてくる認識。ユング心理学からの由来以外で使われたのを未だ見たことがない。 直感 とは別の漢字を宛てたのは名訳だろう。

河合隼雄氏は 本質把握 , 焼き物を見たときに これで抹茶を飲むならば、どの材料でどんな風に作った茶が美味しいか に頭が働くのが直観 という説明をした。

本質把握 だからといって 表層把握 である感覚 = sencing よりも秀れているわけではない。最大の欠点は、他人に伝達するのが難しいこと。

直観思考 は直観とは違う。A と B は類似するもの、互いに連想を誘うものがあるが、どこが似ているのだろうか と深く追求すること。

個人的には、直観だけあって直観思考をしないと物事のバランスが取れないと思っている。

針の穴を通すような直観と確信は、少しでも違和感を感 じたら骨髄まで切り刻む論理と分析、猜疑心に支えられる。それが両輪、片方を動かすのをさぼったらたちまち道を外れて奈落の底だ

昨年八月末、私がある処に投稿したものの再掲

直観に無自覚に身を任せないための、精神修養としての mysticism: オカルト , 神秘主義 といった先人の体系への尊敬。

先人の作ったオカルトは、経験知の集積。そのロジックまでは盲信しないという姿勢で、かれこれ八ヶ月考え続けている。

たとえば、タロットのトランプ22枚をカバラのパスに宛てて瞑想するという技法。とても有名だが、これは勇み足と考えている。

カバラの内容を虚心にみれば、既存 (Golden Dawn団作成) の対応でも不自然だし、他に適切なものがあるとも思えない。22 という数字の一致に感じた類似を、自分の直観を信じすぎてしまったのだろうと棄却した。

簡単に棄却したわけではない。本気で長く実践した結果として棄却したので、それなりの自信をもっている

2010-03-27

怖いカードはあるか

半年の記録をつけていたノートの最後のページで、出て怖いカードがあるか数えはじめた。

カードと出会った当初より、[0:愚者] は良い印象だ。[13:死神] はすぐに仲良くなったし、[12:吊られた男] は格好良い。自己陶酔の恐れがあるので出たら警戒するが。

ちかごろは [16:塔] 、[15:悪魔] 、[剣3] の良い意味も見えてきた。[棒7] は雄々しくて [剣5] , [剣7] も必要なことと捉える。[金貨5] や [剣10] は局面であって、危機ではない。

[棒10] , [金貨10] が出るとアーァと思うが、受け入れられる。[棒5] もやっと対処がわかった気がする。怖くない。

そうだ。いま一番怖いのは[盃6] だ。楽しい雰囲気の中、少女が優しげな道化師から Gift を受け取ってしまったかと思うと怖くてしかたない。ローティーンの娘をもつ父親だしね。

夢の形象

動いているタワーPC の横で眠ったから、ファンの音が耳につき、アイドリングする車の夢を見た。昨日のことだ。

内容からの考察はさて措く。仮に自然の残る山里に眠っていたら滝の音に誘われ、龍に仮託した同じ内容の夢を見たのだろうか。

納屋のような車庫と夜の公園は、龍の住処と森の奥深い空き地に置き換わったかもしれない。

山里でなく農村で、滝ではなく嵐の音に誘われたのなら、嵐が視たい夢のタイミングで来たことを興味深く思い、シンクロニティ = 機運 に思いを馳せたのか。

2010-03-25

ロジックから考える「時機」

歴史とタイミング

500以上 の発言を twitter に流していて、初の RT 波及が、この日記を呟いた記事だなんて、どうかしている。私は実務的な技術者であって、占い師でも、オカルトの考察家でもない。まして、そのての発言を twitter でしたのは たった2回目なのに。

というわけで、論理から解釈するタイミングと偶然の話を書く。

今日は貸出券を持っていかなかったので、引用はうろ覚えだ。また、井沢氏が初学者向けに書いたものだから、百も承知で平易に書いてくださったのをツッコムという野暮な真似だろうとは思う。

新教以前のキリスト教(カソリック) では、教皇が現人神のような扱いでした。その他にも階級がありました。

それはおかしいじゃないか、聖書によると人間はみな泥から作られた。平等なはずだ、ということを言い出したのがマルチン・ルターです。ルターは 自分たちの聖書の解釈を弾圧するな と抵抗 (プロテスト) しました。

その頃、グーテンベルグが発明した印刷の技術が普及し始めました。

それまで聖書は一般の手には入らないものでした。ほとんどの人は教会から話を聞くしか無かったわけで、聖書の解釈を自由にするなど無理な話でした。都合よく印刷によって聖書が、階級が下の人々の手に入るようになったのです。

元本は 井沢元彦の世界宗教講座 ( 井沢元彦 1993 )なんだけれど…… 引用と言ってよいものかどうかわからないくらいうろ覚えです。興味を惹かれた方は、井沢氏の名文を参照してください。

さて、ルターはもともとカソリックの神父だったから、聖書を手に取り、自分の頭で読み解釈する環境があった。

だが、都合よく印刷技術の発達により聖書が普及した のではないだろう。それまでに何人も教会に籍を置きながら、あるいは王侯貴族で同様のことを考えた人はいたけれど、ほかの人に説得力をもって広げるためには聖書の普及を待たなければならなかった。そのタイミングで考えつき、名を残したのがマルチン・ルターだと考えるのが自然だ。

世界を解釈するとき、本当に奇遇としか言えないタイミングもある。たまたま番が回ってきたようなタイミングもある。

タロットとタイミング

アマチュアだから、札を引いて解釈可能な並びを引く率が高い、という気がしてきた。

きづいてから10ヶ月、すべてをここに晒しているわけではないが、ほとんど記録しているので、瞭らかに解釈可能なカードの並びばかり得ていることは間違いない。---残念ながら、それが正鵠を得ていたかどうかは検証不能な内容ばかりだが--

なぜなら、素人は 引くべき時 と感じるまでカードを引かない自由があるからだ。(引かないという強い意志も必要だが)

カード78枚156通りの単語という、制約条件の中で現れる形で解釈できるような形に問いを整理できた時点が、自分でカードを引こうと思えるタイミングなのかもしれない。

確率のセンス

確率のセンス

妙な札の並びをみるたびに、私は確率の計算をする。

一度の出来事に確率の意味はない。それでも計算するのは、一般化した性質を抜き出そうとするときに、日常の感覚とどれ位近いかを検証の材料にするため。

今はもう公開できていない私の日記、去年の5月1日にこんな記載がある。

[essay] 夢を見た

なぜか、電灯を点けっぱなしにして、布団を頭からかぶって暗くして眠っていた。

妙な夢を見た

自分の作った人工無能との会話がかみあってしまって、神はさいころを振った結果で全能を示される と舞い上がってしまう男の伝説だ。

うまく肉づけすれば読める話になりそう。

ひとことでまとめれば、数学のセンスがあっても確率のセンスがない。

人為ですら起こしうるできごとが、偶然に起きないはずがない

珍しい並びを得たとする。ケルト十字のつもりで10枚引いて、トランプが0番愚者から9番隠者まで順序よく並んでも良い。特定のスート、金貨なら金貨が同様に並んでも良い。もっと「ありそうな」できごとでも、人は往々に驚く。

確率を計算して かれこれ500回は引いているのだから、1回くらいは起きるさ と言うほうがセンスがない。その世界観は、初心者に引かせていきなり稀少な並びをみたときに崩壊する。どんな稀少な確率の出来事も、起きる時には起きるのだ。

ただ受け入れる。矢が自然に弓を離れるように。そういう時機がある。

すべてリバース

私が日本のタロット本を読み漁っていたころ、30〜25年前に記憶がないが、ちかごろは すべて逆位置で札が出たら、カードに嫌われているのだから 今日は占うべきではない とすべてご破算にして占うのを翌日に回せ という説があるそうだ。

たかだか 1024 分の一の確率に、畏れを感じるようでは札の並びを受け入れる時機が心にきていないということだからご破算にしてしまえ、ということなのだと思う。

ケルト十字で10枚引く時、 毎回に 156 × 154 × 152 × 150 × 148 × 146 × 140 × 138 で 4,675,765,217,094,107,136,000 通りの事象からひとつを選んでいる。

言い換えると、 0.000000000000000000000213868736 の確率から一つを選んでいるのだ。

すべてが特別。とくに意味はない。畏れるならば毎回畏れるべき。

7枚ずつ引く

7枚ずつ引くのを伝統とすることがある。

今まで、飛ばした6枚には、表に顕れなかった底の流れが表示されるのかもしれないと解釈しながら、深く考えなかった。

稀少な並びを引き当ててしまったときに、いくらかでも自分が納得できるようにという自衛、予防策ではないだろうか。今回考えていて、ふとそう思った。

ま、実際は札を人為で繰って他人にアドバイスするときにイカサマがしやすいからだろう、とも思うが。

天和を狙う

20年ほど前、麻雀に熱中していたときに。今年の目標、俺は四暗刻を3回和了る。 じゃあ、俺は九蓮宝塔だ という遣り取りになって じゃあ、俺は天和/地和を和了ろう という言葉が口から出た。

どうやって狙うんだよ というツッコミがもちろん入ったが、思い返すと四暗刻を狙うのも天和を狙うのも変わらない。いくら狙っても、そこにマッチした配牌と自摸がこないと和了れないのだ。なにも変わらない。

ありえないできごと、信じられないできごと

ありえないことは起きない、信じがたいことは、しばしば起きる あるとき、ふと思いついた科白だ。

もちろん、私自身が ありえない と叫ぼうとして、気づいて落ち着くために言った言葉。起きたことは起きたこと。ありえないのではない、信じがたいのだ。

そしてなぜ信じがたいのかといえば、幼いころに 起これば良いな と期待して、叶わなかったときに こんなことは滅多に起きない。起きるはずがない と自分に言い聞かせ、だんだんにそれを世界観にしてきたからではないだろうか。

人為ですら起こしうるできごとが、偶然に起きないはずがない。もちろん毎回には起きないが、ときに起きる。

2010-03-23

守破離

本人の宣伝や、周りの評価として、この半年に何度か見かけるLyrical Cards さんのタロット物語

よく練って作られた内容なのだな、とは伝わる。でも私は精読しない。前にリンクを集めてメモったときに書いたような気がするが、英語など自分の思考と少し遠い言語で書いてるサイトが好き。

タロー札に遭った10歳〜15歳のときならば、こういう内容が好きだった。いまは読む気がしない。それぞれのカードを自分の人生で出会った様々な局面に当てはめて考えるほうが実用的だからだ。私みたいに四十過ぎていれば、自然なことじゃないかな。

独り暮らしをはじめた十八歳から、タロー札とは縁が遠くなって、昨夏に再開したときには数札の意味など忘れていた。なぜ画風に惹かれて買った数札に画が描かれていないカードしか手許にないのかと苦労したし、思い浮かべる数札の図柄はやはりパメラさんの画 。それくらいにあやふやな頭でも、だ。

カード一枚々々は外国語の単語に似ている。意味内容の範囲は、日本語と違う。むろん英単語とも仏単語とも違う。同じならば画に描いたカードを使う必要はない。

日本語に翻訳すると意味の拡散するカードを、並べて中心を探ることでストーリ(筋) が生まれる。ストーリの中で個々の意味が生きてくる。

記憶術も悪くない。どんな早熟でもハタチ前ならば、思い起こせる人生の局面の抽出しなぞ、そう沢山はないから、どんな独創的な解釈も乱読する必要があるだろう。

でも、数字の順番に編んだストーリを読むのは、思い起こす時のイメージの幅が狭まるから良くないと思うんだ。よくできた物語であるほどね。

カードは局面や単語であって、その汎用性は、使いこなすということは、どれだけ沢山のストーリに別の文脈で使えるか、じゃないかな。

私の尊敬しない占い師さんが、カードに前後の文脈を持たせ、前に占ったときにこの意味・この人を指したからと囚われちゃいけません という意のことを書いていたが。意味の積み重ねと連鎖がその人にとってのカードの意義じゃない ?

同じ人、同じ問題について並べたときに、意味の累積が発生しないようなカードしか引けない奴は ヒキが悪い んだよ。そうなったら札引くのきっぱりやめるよ、私は。

2010-03-22

頭休めの確率計算

ちかごろ、人間関係について引かれた札のトランプ(大アルカナ) は原型に頼らないといけない大きな危機、もしくは原型に飲み込まれていること自体が人格の危機だと思っている。

人間関係を自分と相手で2枚引いた話を読んで、両方がトランプだったので もしもフルデッキ78枚の中から引いたのなら と但し書きをつけて自分なりの解説をしたのが先週。ためしに確率を計算して、日常の感覚に一致するか心に置いてみよう。

  • 2枚引いて、両方がトランプ : ( 22 × 21 ) ÷ ( 78 × 77 ) ≒ 8%
  • 2枚引いて、片方だけがトランプ : 2 × ( 22 × 56 ) ÷ ( 78 × 77 ) ≒ 41%
  • 2枚引いて、どちらもトランプではない : ( 56 × 55 ) ÷ ( 78 × 77 ) ≒ 51%

ついでにもう一つ。ニュートラルに、事件や思い込みでなく接しているという並び = コートカードの確率は ?

  • 二人ともニュートラル : ( 16 × 15 ) ÷ ( 78 × 77 ) ≒ 4%
  • 一人は事件に囚われている : 2 × ( 16 × 36 ) ÷ ( 78 × 77 ) ≒ 19%
  • 一人は原型や行動原理(Ace) に囚われている : 2 × ( 16 × 26 ) ÷ ( 78 × 77 ) ≒ 14%
  • 二人とも事件に囚われている : ( 36 × 35 ) ÷ ( 78 × 77 ) ≒ 21%
  • 二人ともが原型や行動原理 : ( 26 × 25 ) ÷ ( 78 × 77 ) ≒ 11%

あとの4パタンはいいや。これ以上に数字を出しても印象に残らなくなる。

告知

ふだんなら異端といわれることを恐れて言わないような、世界の認識の話を今日は公式日記のほうに 狂気は相対 の名前でまとめた。

内容はこちらのブログからの流れだが、公に結びつけられても構わない文章にまとまった (つもりだ) から。

2010-03-21

夢日記 10-03-21

おもしろい夢を観た

ちかごろ、深すぎて持ち帰れない夢か、浅くて他愛のない夢しかみることができていなかったが、久々に程よい夢だった。

内容はまだローカルの手帳にしか書けない。それもこれから。

二日後に追記

この日の寝る前にざっくりと文章にまとめたが、これは他人に説明できないや。

気恥ずかしいからでも、プライヴェートで自分や他人に差し障るからでもなく。内容が豊富で、細部に籠められているさまざまな意味は個人的な思い出に結びついていて、私の筆力では冗長になりすぎる。

ひとつだけ、このブログの話題に関連する話を書くと。思春期以降に夢に登場した女性はみなセクシャルな印象前に書いたが、今回は違った。

クラスの違う、顔見知りの同級生程度の位置づけと思われる、実在のモデルのいない少女が出てきた。中学、高校と男子校だったのにね。

親しくもないが通りすがりでもない他人という存在がでてきたのは、たぶん私自身が社会に復帰しようとしている現れだと思える。

実占

怒りをもて余して「自分のこと」を引いてみたりする

「稼げ」、もしくは「父に会え」とな

的確に札が引けた日に、毎回此処に上げていると、ぐだぐだした自分の感情や生活の記録になってしまうのが困る。

かといって、メモをひっくり返して忘れていた後の展開に呼応するカードの並びを見つけると、また頭を抱えたりする。

カード引いた時の高揚した気持ちが醒めないうちに、差し障りのなさそうなものはなるべく記録しようね。恥ずかしいけれど。

第一カードがトランプでなかったので (今回は) ほっとした

棒5 盃J 金貨10 金貨騎士 法皇逆 剣J
金貨A 盃王逆 金貨王 節制

Jack = Page ばかりが十字部分に出ると、自分の未熟を突きつけられたようで少し気が滅入る。もちろん「発展の余地あり」と好意的に捉えることは可能だが

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2010-03-20

補足 (原型の支配)

原型に支配された人間関係 と言っても、交流分析という心理学の手法の言葉で ゲーム , もしくは ドラマ的交流 と言っても原理は同じです。

ゲーム よりも 原型に支配された という言葉のほうが、パターンが数々登録されているから便利なので、よく使います。それだけ。

腑に落ちた

15日の並びを再掲

この日、私が読みたかったのは、左側 (にカードを展開した) 男が、右側の女との関わりにおいて原型に支配されていないか だった。その気配を感じなかったので良しとし、全体の雰囲気から、なんとなく納得していた。

展開をしたときから、じつは中央の札が 節制 ではなく Art に思えていた、なにか新しいものを創ろうとしている結びつきと捉えていたことは最初に記載しておく。(逆位置 = 順調ではないわけだが)

さて、右側の上下にそれぞれトランプ = 原型が出たことは気にかかっていた。右は原型に支配されて、左を個人として捉えていないのだろうかと。或いは、右は左を個人としてではなく = アニマ の投影として観ているだけなのだろうか。どちらも実感にそぐわない、と。

このブログで度々書いていることだが、再度書く。カードに顕れるとしたら、どんなにヒキが良くてもせいぜい占者の認識。未言語かもしれないが、直観かもしれないが、正しいとは限らない。ただ占者の普段の意識と違う考えを引き出す援けになるに過ぎない。少なくとも、札を引いた本人である私はそう考えている。

けっきょく、問題意識がきちんと捉え直せれば、(そしてヒキが正しければ) カードは読めるし、そうでなければ未言語の納得のままに終わってしまうのだね。今回、カードを引く契機になったのは、自分が影の存在、トリックスターとして認識されているのではないか。自分こそが影の側面に対応する友人であって、全人格に関わらせてもらえていないのかであった。

そう言語化できれば、答は目の前にある。(あくまで占者の認識で) 、CUPS 2 は 魔術師逆 = トリックスター を通して認識されている、それを危惧しているという意味だ。もちろん、実際にどうだかは解らない。検証不能。あくまでカードを引いた人間の観点だ。

逆に左の男は、手に入れたばかりの観点、まだ未熟(逆位置) な情感(CUPS/水) という側面を振りかざして (Jack/Page) 相手の見せてくれている精神性、を理解しようとしている。

人の心理、関係なぞ検証不能。また時を経れば変わるし、真実の姿・状態を認識することはできないだろう。あくまで占者がなにを危惧してカードを引いたかであり、結果としてこの並びは占者の不安、疑問、不安をみごとに映し出していた、といえる。

2010-03-18

"It is true, but pity you have said it"

ISBN978-4-901510-75-2 「河合隼雄 心理療法家の誕生」(大塚信一 2009) を読んでいる。

シンクロニティは認識の問題だと思うんだ

占いなんて「未来や現実を見透すか」じゃなくて「その時に一番楽になって、かつ悔いの残らない解釈を呈示するか」だと思うんだ、少なくともタロー札は

ということを本の内容と無関係に考えたあと、読み進めたら「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という諺を河合氏が挙げると「そこまではついていけない」と指導教官に言われる話が出てきた (p.218)

2010-03-17

15日のカード、16日のカード

写真を確認したら、どうみても右側の並びで横切っているのは剣9、8じゃない。下も6ではなく5だろう。

うっかりは今まで度々やっているが、今回は本当に感情が認識をねじ曲げたかもしれない。

ところで昨晩は「構築のための破壊」を引いた。私のデッキでは番号のないトランプその2。

思った道を行くしかないね、苦しむだろうけれど仕方ないと一枚で脱力、放心していた。

逆位置だったけどな。

24時間程度たった今、状況認識にほかの解釈を気づき、収拾の手も打ってみたが。あの時、あの状況では既にあと戻りできなかった。

いや、気づかないままにあと戻りを図っても混乱・悪化させるだけだから。昨晩の時点のヒキは状況・認識に合致していたワケだ。

当たり・外れは検証不能として、悔いだけは残らないカードを的確に引く。

何を引いて認識に当てはめても大差なく、かつ迷っている時にカードを引いているとも解釈できる。

2010-03-15

余談だが

デッキも買い換えて、カードの癖による影響は考えづらくなっても。

星と節制を的確にセットで引くヒキには感心するばかりだ

久々に実占

なるほどね

相変わらず現実を解釈できるヒキがある。いまの状況、自分の識りたいことを得るには、どう展開するか二日考えた価値があった。

私(左) : 棒の4を剣7逆が横切っている。根底は盃ジャック逆、対手に見せているのは盃2

対手(右) : 剣6を剣8が横切っている。根底は魔術師逆、私に見えているのは星逆

間に横たわるのは節制逆

2010-03-14

断片

引くカードに顕れるとしたら己の心の持ちよう・処し方という大前提から話さないと、いきなりカード解釈を書いても日本では異端者か…… と苦笑するような遣り取りをしてしまった。

あまり深く考察したい出来事でもないので、受け流すために記載しておく

現世利益はないよ、事象に合わせて己を変えないと

2010-03-09

復帰させるか

ふと哲学のセンセイのお話を聴いてきて、ここで再々書いている 事象と解釈、現実 の話は、20年ほど前に流行ったフランス哲学の再発見だとわかった。

さて、幻視、幻聴。夢告げ、タロット。

とくに望んだわけでもなく、日常で無自覚に発揮してしまうと問題があるので客体化するためにはじめたこと。ちかごろ、また色々と問題が出てきたので、復活させる努力をしますかね。

昔話のように 幸せに暮らしました。まだ死んでいなければ、今でも生きているでしょう とはいかないのが現実というものだ。

もちろん、簡単じゃないだろう

2010-03-04

やはり、今は読めない

1.

いくつか気晴らしに、確実に面白いとわかっている未読の推理小説を借りた。

長編を一冊と、中編集の4編収録されているうちの3編を読んだ。

やはり、読めない。集中できない。

世界に対して、新しい解釈を求めていない今の心。小説すら読めないらしい。苦笑。

2.

戯れに、現れたカードに意味を解することのなかったコンピュータの乱数に、いま自分の一番懸念している人間関係を訊いた。

白黒のウェイト=パメラ版がきれいにケルト十字に展開されるCopyright © 2000 J.B. Hare. とかかれたサイト。

3回引いて、3回別の答。どれも解釈としていまの状態に適用可能、受け入れ可能。

だが、どれも違う。札を引き、現実に異なる解釈を求めるとき、読み取れるのは未言語な事象の中から対処すべき局面なのだろう。

行うべき方針が決まっているとき、そこに読める解釈は幾通りもある。

どの解釈を採ろうが、やるべきことは変わらない。ならば、札を読むことに意味はない。

3.

いま対処すべきすべての事柄が終わり、悔いを残し、解釈が必要になったときに。小説も、タローカードも、また活きるのだろう。

オカルト思考解禁…… しなくて済んだ

友人の住居の上の部屋、普段トラブルを起こしていた住人が自殺をしたという。

多少、凹んだ感じの文章を見たので、厄払いが必要ならば久々にオカルト的な知識を解禁しようかと一席設けた。金銭の都合で私の部屋で。

霊視などもちろん、できない。その手の感覚は、むしろ鈍感なほうだろう。ただ、オカルトな思いで否定的な感情に囚われているならば、オカルトの枠組み、ロジックで気分を変えてあげる必要があると思っただけだ。

殆ど読んだことはないが、京極夏彦の初期長編シリーズに近い考え方だね。

本人が気にしていたのは、トラブルが周囲にも知られていたので、自殺に追い込んだのは自分と思われているのではないか。住み辛くなるのではないか、というだけだった。オカルト論を炸裂させずに済んで助かった。

何度か、ここで書いているがまた書く。

オカルトと言われる、科学で未解明の部分。そのロジックを納得することは私にはないだろう。だが対症としての体系は、ある。それを識っていることは損にはならない。必要なときもある。

今回は引かずに済んだし、引いたとして的確な札の並びを得ることができたか。それは解らない。だが、タローカードを引き解釈をするということは、世界に別の解釈を与え、名付け、再生する作業。そう捉えていることを自分で再確認できた。

事象と現実のあいだには、常に解釈が介在する。科学の言葉であれ、オカルトの言葉であれ、解釈によって世界を塗り替えていくことができる。それも人の能力のひとつ。

友人は、私よりも科学による解釈が難しい出来事に何度か遭い、そういうこともあると受け入れているそうだ。伏見神社の鳥居の中を歩き方向を喪い、暮れに出会ったはずの人と家を朝に見失い、墓地の跡に白いもやを見たことがるという。

それらを、たとえば推理小説の枠組みで解釈することもできる。だが本人が気に病んでいないものを無理に解釈することもない、検証不能な過去の出来事。受け容れているならば、それで良い。

私はそういう現象に気づいたことはない。霊感という言葉でいうならば、おそらくないのだろう。

霊という言葉を使うか、使わないか。それはどうでも良い。世間には 感じる 人と、自分の認識を他に及ぼす 人がいるだろうとは思う。私は後者。勁い力で他を圧倒するものに、感覚は訪れない。そういう役割だ。

上に書いた3つのほか、彼の気に病んでいた一つの現象がある、と聞いた。

南禅寺にて。異形の僧が瞑想しているのを見て、この人は極端に偉い人か、世界の枠組みから外れた狂人だろう と思った瞬間、目を開けて見据えられたのだという。

私の解釈。友人が瞑想をしている立場として、逆でもおそらく感じることはあっただろう。それは人 (の大部分、感じる側の人) が誰しももつ感覚だ。友人は 見抜かれた のではない。お互いに呼応し、受け取ることができる相手に発信してしまったのだ。

だからどうということはない。科学の言葉で説明をつけるには未解明だが、たしかに感覚はある。だが畏れることはない。

そんな話をして別れた。

2010-02-19

演算する夢

夢の周り

神秘的でもデモーニッシュでも、もちろん私が信じていない霊的なものでもないが、おもしろい夢をみた。(「見た」でも「観た」でもない)

註 : 霊的なものがあるかないかは知らない。自分が信じていない内容の夢はみないと確信しているだけだ。他の体系で解釈可能な間は、みないことになるね。

あるコミュニティで言えたら良いと願っている内容を将来発表したときに、どういう反応を各人が示すかを、演算してくれる夢だ。

昨夜はなかなか寝る踏ん切りがつかず、誘眠剤に頼るかどうか迷いながら眠った。寸前のアナログ時計の夜光塗料は3時を指していた。

体感ではなく、本当に長く夢をみていたのだろう。というのも、何度か繰り返し自分の寝相を感じ、これは携帯電話から本当に投稿・閲覧しているのではなく夢なのだと識り、そこから改めてならば次は何をみんなに話そうかと 現実の 意識で考えて、また夢の中のそれに投稿したのだから。

夢と幻視との定義的な区別は曖昧だ。まして、意志・主体が現実の側の意識にあるものは、どちらと言ってもずれがある。現実や日常寄りの話だから怖くないよ と強調したくて、今回は夢と表現している。

一通りの関連する質問を了えて、空腹もあって夢から日常に戻ろうと決めたとき、寝具の中で夢をみただけだったのではないかと考え時計をみた。5時。流石に2時間はない (体感で20分程度、たぶんもっと短い) から、睡眠も摂ったのだと分かった。

眠る前も、目が醒めてからも、身体を楽にするためのストレッチと考え事のほかは手につかなかったから、寝具の中にいた 睡眠時間 は6時間くらい。

こういう夢を意識してみることができたら、昔ならば 夢占い , 水晶占い を名乗るのだろう。私は単にイメージの演算と解釈する。

でも、これくらいのヴィジョンをみてこそ、ブログ URL に名乗った Image Gazer に相応しいと、誇らしく思っているのも事実だ。

余談

とりたてて言う気はなかったのだが、雑談の中で他の二人が符合した夢を今朝みたとわかり、ぼかした形で内容の一部を明かした。

良い夢を口外すると、実現の可能性が薄れる という古い日本の言い伝えを思い出した。

人に明かしてなにが起きるとも思わないが、平安貴族の社会、夢にもたせた意味をコミュニティ全体が信じていた頃ならば、政治闘争をしていた頃ならば。

誰かにとっての吉夢は、別のひとにとって面白くない夢であることもあっただろう。

同僚を妬んで、直截の言葉で解釈をねじ曲げ、あるいは呪術、噂を使って 夢違え をすることもあっただろう。

さすがに、それは面白くないから言わないだろうと、平安貴族に同情した。

2010-02-18

過去記事改変履歴

過去記事に手を入れても、RSS に反映されないのか。

<ins> タグとは別に、記録を残すためのページが必要だね。

2010-02-17 : 昼に引いたカード (2009-12-27) に [太陽] のカードについて考察を追加

しばらく新しい記事は停滞すると思うが、過去の記事に手を入れるたびにここに書くことにする。この先に新しい記事があっても、履歴用のページはここ。

2010-02-14

まるで物語のように

2,3 日前から兆しはあったが、今朝から完全に、タロットが読めなくなった。

これだけ願望が強ければ、世界の解釈に他の可能性が入り込む余地がないということだろう。少なくとも、今は。

認識や考察が逃げたわけではないので、この文書は続く。

2010-02-10

予定項目

書きたいと思っていながら、日々の進捗に追われて自分でも忘却しそうなことがらをメモっておこう

まず、手元に図書館のダグラス本「タロット」(河出書房新社 1995 ISBN4-309-22428-8) がある。ここからふたつ引用して書きたい。

ひとつは、タロットの起源は麻雀(の原型)じゃないかという話。浅見先生の麻雀ページからも対応するページを探して引用しないといけないので、時間がかかりそう。

カバラの本質は、もともとは国を統治するための心得じゃないか、という考察がもう片割れだったかな。男性原理と女性原理

もう図書館に返した、もう一冊のベルヌーイの文庫、錬金術とタロット ( Rudolf Bernoulli / 種村季弘 1972改訂版) の最初に収録された話。錬金術の庭 だったかを読んで、人が生きながら諸相を変えること自体は、螺旋階段を上がるような進化の道 (内藤本「瞑想」) という今までの解釈から拓かれ、変化して巡るところからの収穫に意味があるのではないかと考えるようになった。

四元についての考察も、膨れ上がり過ぎていて、処理に困っている。なおかつ自分の認識方法として通り過ぎるときがそろそろ近づいている気配だ。

概要として、1) まず人間の認識が、一年を四季に分けているのではないかということ。なにかをみると、二軸4つの要素で考えようとする、文化・思考形態、もしくは生存競争の結果得た認識があるのではないか、と。

軸が複数あるという認識が、物事にふたつの特性・分類を考えたときに、対立か直交かを考え踏みとどまる力になる。

次に、地水火風おりおりの関係。棒(農夫) は聖杯(宗教) を使い(生み)、聖杯は金貨(商人)を使い、金貨は剣(兵)を使う。棒と剣とは対立。聖杯と剣とは並立。金貨と棒とは無関係。

たんなる旅先の思いつきのつもりだったが、けっこう他でも有効。勝ち負けを一方的な矢印、対立を拮抗する矢印、並立はまるまって伸び縮みするコードのような線で結んだ図が手元にあって、これを清書してからあげたい。(無関係は破線なんだが、技術的に清書できるか)


以下、本当に未整理の走り書き

火の思考、感覚とクンダリーニヨガに近い感覚、情熱、熱狂

水の情緒、やさしさ、理解。

水は剣では斬れない。また物質(=土属性、金属) としての剣は錆びるが、水も剣を害さない。ましてや風と水ならば、まったく並び立つ

与太っぽく読めるが、コンディションと人の感覚の各人のパラメータによって、わかる人もいる。わからない人もいる。そのあたりを表現するならば、分析ではなく小説の言語になる。

2010-02-08

決断

まる三日くらい考えている内容がある。

方針を決めたところで、やっとカードを引いてみた。ケルト十字。

結果 ? 近い未来は [運命の輪]、最後の一枚は皇帝(逆)。

結果はわからない、決めるのは自分、どう転んでも大きな転回。私らしいや。

街の占い師さんが客に告げたら怒られる内容だが、私が私のために引いたカード、出した卦としては、これにまさるものはないだろう。

2010-02-07

かまたきみこ "KATANA" にファンタジーを感じた

ふと二年近く前に買って、何度か読み返した漫画「虎落」(かまたきみこ KATANA シリーズ2巻 2007) を手にとった。

河合隼雄のいう ファンタジー 、心の物語と読めた。ことに第三話「蠱都の刀」。

掲載誌「ホラーM」にありきたりな展開だといえばそれまでの話。刀の精がスピリッツてあり「たましい」なのも気がつけば当たり前。

問題は受け取り手との波長の合致なのだなぁ、というのが今日のこの記事のキモ。

2010-02-05

対人に引いたタロット

ふと時間が空いて、携帯から送信したメールを読み返していた。各種の blog への投稿や、私的なメモが多い。

先週気まぐれに引いた実占記録がでてきた。

何人かの知り合いを一人ずつ思い浮かべて一枚引いたものを 「いまの私にとってどんな位置付けか」として並べ、下に「対応すべき自分の顔」としたもの。

五日経って読むとなるほどと思った。なぜ腑に落ちるのかの理屈を考えるのは放棄して、書く。


私にとっての位置付け、6枚のうちにコートカードが4枚、数札・トランプ各 1枚。

お会いしたことがあるにせよ、文章だけにせよ、互いにリアリティのある、人間としての個性の付き合いには、きっちりコートカードが現れる。

トランプは、原型に支配され、投影された関係。数札(2〜10)は個性を見いだす以前の局面の投影。

各スートのエースは未解釈だが、今までのほかの実占記録を思い返してもそんな感じだ。

こちらが向けるべき相は、数札5枚、トランプ1枚。

現実の紙の札を使っている限り、上に出た札は出ないからね。当たり前といえばそれまで。だが示すべき単相は数札かトランプで妥当だ。

右手のための珠

人形の夢を視てしばらくして、夢にでるけものに解釈する頃から、左手を意識してデモーニッシュな力を活かそうとしてきた。

そろそろ右手/ロジック/生活/律法から、こちらをないがしろにするなと言われる気がしてきた。

新宿紀伊国屋ビルで、そんな意識と願いを託するならば護り石はどれかと勘で決めた。名前は憶えていない。

左手のエネルギーを制する = 時に応じて抑圧する気持ちで選んだが。右手で玩ぶと左に応じて活発になる気分。

石の性質か、自己暗示かはどうでも良い。

左手に意味をもたせた、同じ意思で右にも意味をもたせた。それだけ

夢からきたアイデア

夕方から眠り、三時間ほど前に起きた。目を醒ます前の夢について、ずっと考えている。

個人の認識・概念を、原型や神話の喩え話ではなく、コンピュータ言語に似た文法で表現する夢を見た。

(「視た」ではない。もっと現実よりの階層)

オブジェクティヴな、C++ や JAVA に似た構造をした、単語は日本語を使った言語だった。一行で大きな変化を表せる、圧縮した言語。

つきつめて使えば、実用的だと思う。

この夢で、同時に近頃よく会った人の頭部のイメージもみた。私の夢に、実在の人間が現実そのままの姿で出たのは、記憶にある限り初めてだ。

(人物ではなく、その立体イメージだから、正確にはずれるが)

抽象と現実の両方に対して、同時に鮮明なのは面白い。あたかも根を深く張らないと、樹木が高くは繁らないかのようだ。

言語で何を表現したのか、どう表記したのか、まだ具体的に思い出せない。

私にとって考え続けるに値する内容だと思うのだが、まだ準備が整っていないのだろう。思い出した(再構築できた)ときに、他人に話せる内容だとも限らないが。

2010-02-04

アニマについて、迷ったがこちらに記載した晩に

アニマについて、迷ったがこちらに記載した晩に、おもしろい夢を視た。

影に隠れた黒ずくめ黒頭巾の、数人と共に物語を紡いでいく夢だ。

風景、登場人物などを語り、私を含めた全員の認識が一致するたびに、その立体映像が彼らとの間に現れる。

夢だと自覚していて、映像から自分の好きに展開したいと欲するが、それはできない。

いくつかの映像を視たが、ひとつしか持ち帰らなかった。和風の顔立ちだが輝く肌色と同じブロンドの少女の顔。

一ノ関で読んだ「とりかへばやを読む」で、「夢に出る異性は重要な意味をよく持つ」とあり、私の夢に出る異性は、思い出せる限り、ふたつ例外はあるが、セクシャルな印象だと考えたばかり。

10月に観た夢の、右手の向こうでいっしょに歩いていた女性。未記載の初夢に観た、三人組の泥棒の中のふたりの老婆。

2010-02-02

アニマのシャドウ

今日、面白おかしく騒いで、普段の私の嫌う女性ならばこんな発言をするのではないかという見立てを幾つか書いた。

袂を分かった知り合いの発言にそれぞれ似ているよな、とは感じていた。

小一時間して思った。これが私の心の女性性の、さらに圧迫された部分。女性性のシャドウだ。

アニマのシャドウという言葉が浮かぶ。だがむしろ、女性性のシャドウを外部に投影し、それを取り込もうとしながら自覚無く、惹かれたと認識するのは、元来の観測されるシャドウそのものだろう。

これを投影していたから、これを向こうが演じていたから (文章に上手くまとまらないが、現象として相手に投影された姿を演じることが起きたと感じている) 私は度を失い、相手は不快に思うのか。


演じさせられている自分は自分ではない、と。

2010-01-24

体験のことば・解析のことば

昨日は没原稿を書いてしまったので、整理しておく。

前提 : 直観と神秘主義/神秘体験

この blog の最初のほうで書いたように、神秘主義 (狭義・厳密な意味のオカルト) には経験則としての意味がある科学の言葉で道筋をたてて説明されていない、放っておくと見過ごしがちな経験則が含まれている と考えている。

同時に、直勘優位で動く心の持ち主 や、幻視・幻聴体質 という、世間で少数派のための生きる知恵なのかもしれないという話も書いたことがある。

しばらくタロット本を読んでいるうちに、19世紀に錬金術を体系化した人々は、直観優位の人々であったが故に、過剰に直観を他の 3機能より重視し、絶対のものとして書きすぎているのではないか という考えも持っている。

註 1: ユングのいう 感覚-直観 , 論理-感情 の4機能の考えをベースに展開している

註 2: 未解明ゆえに過剰に信を措く人もいるが、個人の思考形式のひとつである以上、直観にも誤謬があって当たり前。という話もすでに書いた。

註 3: 19世紀に体系づけられたとき、タロットは錬金術の一部として捉えられた

註 4: 19世紀が直観優位の時代であったわけではなく、直観が虐げられ始めた時代であるが故の反動だろう。過去に黄金時代があって、その知識を解明している という意識で書かれていたことも、それで説明できる。

没原稿について

1月18日からの旅行の夜間、私は直観の判断をベースにして行動した。有意義な体験だ。

没にした原稿は、直観からそのまま言語化したものを書いた。

だが直観からの 経験則 をそのまま書いては、直観優位でない人、直観優位だが類似の体験をしていないひとには、タワゴトにしか読めないということ。これも事実だ。

そこにロジックの説明をつけることが、過去からの啓示とした19世紀、未来の一面的な理想としたニューエイジと、私のスタンスの違いであるはず。

いわゆる 予言書のパラドクス

岩手・宮城内陸地震 (2008年6月14日) の傷跡残る、栗駒山を地元の友人に案内してもらった。

山道に残る道祖神などを見ながら、友人にこんな話をもちだした。

昔のひとは、神様を祀っているところは、その加護によって無事だった と言った。近頃は 地盤の丈夫なところに神様を祀っているのは、古来の智恵だ という。どちらも間違いなんだけれど、わかる ?

え、いやわからない。(運転中だったので深く考えている余裕はなかっただろう)

山道に、ずらりといろんな神様が祀られていたところを想像してごらんよ。いま僕らが見ているのは、地震の崖崩れで押し流されたり、埋もれたりした像の残りなんだよね

ここで大切なのは、神様が祀ってあるから安全 という判断を嗤うことではなく、経験則、淘汰の結果として。安全な場所は取捨選択して残されている。偶然に残ったのかもしれないが、理由があって残った可能性も高いから、他の場所よりはいくらか安全 ということだ。

2010-01-23

伏流水

今日23日、午頃にひとつ書いていた記事があるのだが。いったん草稿の扱いに落として没とする。

自分で考え産み出した心への考察は、生活との接点、擦り合わせができている。取りたてて書くのを忘れるほどに。

書くのを忘れていたら、文章だけを取り上げたら妄想・カルトと見分けがつかない。ちと文章が不適切だったということだ。

追い々々と、誤解を受けないように慎重に、小出しにしよう

2010-01-19

陸奥の地を旅している

深夜に列車できて、私にとっての幽冥界だと思った。
なにげなく鞄に入れた「とりかへばや、男と女」(河合隼雄 2001年)を読み始めた。
色々のことを考えているが、ひとつだけ

「事象」と「現実」の間には解釈が存在する。
英語の "real" と "reality" も相似だろうか

2010-01-05

今まで認識し得なかった感情

仲間外れがつらい、という感情は理解可能だ。ある人を手許にとどめたいという感情も建設的とは言えないがわかる。

ある人が、別の人と一緒にいることを、快く認めていながら、目の前に見たくないという感情をなんと呼ぶのか。

これを嫉妬と呼ぶならば、タロー札78枚、いやスート札56枚のうちに象徴するカードがあるだろうか。

パメラ・スミスの描いたウェイト判を、一枚々々眺めながら考えた

嫉妬に当たるカードがあるとしたら、感情の盃だろう。2の逆、もしくは騎士の逆。独占欲まで含めれば、盃王の逆やトランプ女帝の逆も考えられるが。

念のため、棒を人間関係として眺める。剣を否定的な情動として眺める。

どれも、今の感情の原因や巻き起こす事象を表し得ても、感情そのものではないな。

これを嫉妬としよう。世間一般に認知されている感情が、自分に起こり得ないと否認するほど愚かではない。

だが、盃騎士逆や盃2の逆だと? 今まで、なんど見たと思う?

今までの札の並びの記録を全て掘り出して、その認識が当てはまるかどうか見直さなくては。

些細な、実占記録

些細なはなし。

なんとなく、珍しく、昨日寝る前に今日を引いてみたくなり、今日を半日過ごした処で暗示された部分をこなした気がしたのでもう一度引いてみた。2つが連続していて、また 当たり外れは別にして、とにかく首尾一貫したカードを引くよ というだけの記録

昨日から見た今日

星逆
横切るもの
棒7逆
根底
金貨3逆
表層
盃5逆
過去をどう解釈
盃9
先をどう捉えている
盃7逆
自身 (いま読んでいる本の影響で、ちと解釈を変えて引いてみた)
盃3逆
他者から見た自身 (同じく、変えてある)
棒騎士逆
剣5逆
このままの推移の結果
剣女王

午前が終わって、この先

剣8
横切るもの
棒9
根底
剣騎士
表層
星逆
過去をどう解釈
棒10逆
先をどう捉えている
自身 (いま読んでいる本の影響で、ちと解釈を変えて引いてみた)
盃5逆
他者から見た自身 (同じく、変えてある)
盃7
棒Ace逆
このままの推移の結果
剣2

2010-01-03

年の初めに一年を占うということ

占いかぶれ らしく、目が覚めたらこの一年の吉凶を占ってみようかと思いながら未明に眠った。

目を覚まし、暦の区切りに何の意味があるだろうかと考えてみる。占星術を引いたとしても、いまの太陽暦での新年に意味があるとも思えない。

重い夢を視たり、気分がころりと変わったり、個人的な節目・潮目を感じることはある。そこにリズムはあるだろうか。天候の変化が周期的ならば理解しやすくて美しいと、人は思ってしまうが、幻想。気候は大まかに毎年巡るが、細密に一日を区切ることなどできない。

晴れの特異日に意味があるか、というと占い以前の験担ぎだよね。

日本なら4月、欧米ならば9月の年度替わり、決算をして人が動くときに、様相の大きな変転はあるだろう。だが最大公約数を取って、3ヶ月ごとに先を占う意味はあるかな?

もちろん、3ヶ月ごとに四半年の決算をするならば多少の意味はあるだろう。

まぁ、そんな話。人みな休みを取り、心機一転するということ自体には意味がある。

運勢の潮目なんて、占いの結果なんて、3ヶ月以上も先のことは言えないのですよ。半年も経てば変わるのですよ。わざわざ言わずとも、3ヶ月もすればみな、年頭の占いの結果なんて忘れていますよね?

予測は羅針盤、占いであれ、科学で解明済みのものであれ。ちょっと先の行方を、現在の状況・心境が続くとして予測するもの。結果をみて軌道修正するために行うもの。軌道修正ができたあとの、その次のフェーズについて予測することに、意味がありますか?